2024年12月19日木曜日

令和六年12月の投稿 (特別編)

「妻の誕生日」 

 今日は妻の誕生日(11月16日)なので、帰ってラグーというパスタを作ろうと思っている私であった。普段は玄米、魚、青菜のおひたしに味噌汁という純和風な料理が食卓に並ぶのに、何でハレの日はパスタやチキンなどの西洋料理を好むのだろうと考えつつ。

わが家は共働きなので、家事は私が弁当作りや料理、妻が洗濯や掃除という分担が形成されていったのだった。これは私が料理好き、妻が綺麗好きという嗜好や性格から自然な流れであった。


管理人マーキュリーマークからの伝言

「妻の誕生日」に限っては抜粋のみとさせていただきます。
著作権の観点からも削減は仕方ないです。続きは以下をクリック。




「旅に出たい病」

日本人の海外旅行離れが進んでいるというテレビニュースを観て、中1の娘は「冒険心がないなあ」と嘆く。
若者がインタビューに答えて、「海外は危ないし、日本にいると快適なのにわざわざ不便な国に行く必然性がない」らしい。
娘は今年の夏にオーストラリアに行った(二泊三日)ことに味をしめて、インドに行きたい、ブラジルに行きたい、ニューヨークに行きたい、イギリスに行きたい、と言う。
なんだかよくわからないチョイスだが、先日放送された「クレージージャーニー」というテレビ番組を前から楽しみにしていて、食い入るように観ていた。

ジャーナリストの丸山ゴンザレスがニューヨークやブラジルの危険地帯に潜入するルポだ(彼に興味が湧いたので後日著書を読んだのだが面白かった)。

ブラジルのとある都市で最も危険と言われる場所で夜中に100人ほどの〇〇〇〇〇が集まって〇〇を楽しんでいる。
娘はそれを観て、行ってみたい、と言うのだ。

私はそれを聞いて内心苦笑した。
オーストラリアに二人で行った時のことだ。
夜、ホテルに帰る途中の交差点にホームレスが酔っ払っているのか大声で叫んでいる。

娘は「あっちの道を行こう」
「いや、大丈夫だから」

というやりとりがあったのを憶えている。

娘はビビりなのだ。
それを隠して自分を大きく見せようとするのが子どもと言えば子どもである。

私も海外では観光地よりもスラムに興味があるという悪癖を持っているが、本当に危険な場所には行かない。常に危険と好奇心のバランスを考えて、そこに行くかどうかを決める。

先日、娘の部屋のエアコンが壊れた。買い換えなくてはいけないな、痛い出費だなと妻と言ってたら、娘が「買わなくていい。暑いのも寒いのも我慢するからそのお金で海外に連れてってくれ」と言う。
そこまで行きたいのかと少し感動した。
その心意気や、よし!と思うのだ。

同志社大学の創始者、新島襄は函館から一年かけて船でボストンに到着した。密航だから見つかれば死罪である。
吉田松陰はアメリカ船に乗船を断られた。どんなにか海外を見聞したかったか。
彼の弟子、高杉晋作は藩命により上海に行き大きな衝撃を受けた。

私が初めて海外に行ったのはインドだった。飛行機に乗るのも初めてだった。下痢と発熱で苦しみ、おまけに散々ボラれて二度とインドに行くものかと思った。
成田に着くと、しかし違和感があった。
清潔で何もかもが整然としている。知らないうちにインド病にかかっていた。インド病というのはインドと日本を比較してインドはこうだった、ああだったと日本に難癖つける病のことだ。

それにしても世界には80億人を超える人が住んでいて、その中で日本に生まれた僥倖(ぎょうこう)に感謝せずにはいられない。

それを教えてくれたのも旅であった。


ケアンズ旅行記


 抜粋
多様な宗教、文化が交錯するシンガポール。実はシンガポールには行ったことがないのだが、もっと以前にこの本を読んでいたら、きっと行っていたに違いない、と思えるほど吸引力の高い本。

 管理人マーキュリーマークからの伝言
ドリアン長野本人はシンガポールとアフリカに行きたいと今も考えてるのか?観光と生活は大違い。海外旅行は妨害しませんけど日本国内の町とは異なり海外の桁違いに悪い街は避けて下さい。日本で錯乱してる病人を見たなら海外で同様の体験は控えたくなります。
 個人の旅行でも共同不法行為をやらかす人々には気をつけて下さい。 「海外旅行中の過失行為をネタに再び紹介をさせよう。」と計画した人々がいた。カナダでは何も悪いことはせずに帰国しました。幾つかの事情があり紹介されてる状態を無効化させるには移転しか他ありませんでした。閲覧者数は激減したけど不可抗力です。
 責任を感じてほしいです。
平成29年12月に叔父の見舞いに行くと脳腫瘍で狂ってました。
翌月の平成30年の元旦に叔父は死去しました。これも現実です。

日本では自由妨害が好きな悪人が多いけれども負けないで下さい。
「あいつ、こんな悪い奴です。」と主張したい人が拒否されてる。


カナダ コロンビーブリタニーキ旅行記その1


 「沖縄とサトウキビ畑とTHE BOOM」

旅の記憶は現地で食べた物と分かち難く結びついています。
沖縄発祥のタコスといえばコザの中央パークアベニューにある「チャーリー多幸寿」。チャーリーは創業者の勝田さんに米兵がつけたニックネームです。創業は1956年ですから70年近くです。
店内はアメリカンな雰囲気で壁に所狭しと有名人や一般人の色紙が飾られています。 山形から食べに来ました、という色紙もありました。
時間がないのでチキン、ツナ、ビーフのタコスをテイクアウトし、車中で食べました。
U型の皮は柔らかくもっちりとして,具の上にトマトとレタスの千切りが乗っています。う〜ん、今まで食べたタコスは一体何だったんだろう。忘れることができない味でした。
勝田さんは4年前に95歳でお亡くなりになっています。
かつては「B.C. Street」(BCはビジネスセンター)「センター通り」とも呼ばれた米兵相手の歓楽街は1982年に現在の「中央パークアベニュー」になりましたが近くの北谷にできたアメリカンビレッジに客足をとられ、数年前から空き店舗が目立ち始め、往時の賑わいはありません。 「チャーリー」だけが気炎を吐いています。
ライスの上にタコスの具を乗せたいわゆるタコライスの発祥地は海兵隊の基地キャンプハンセン近くにある「タコキング」です。ご飯なので日本人向けかと思いきや、お腹を空かせた海兵隊員に安くて腹持ちのいい料理を考案したそうです。 嘉手納基地ゲート2に至るゲート通りと国道330号線の交差点から500メートルを歩いてみます。
1970年、沖縄女性が酒気帯び運転の米兵に轢殺されたのですが、米兵は無証拠不十分で無罪になりました。その三か月後、330号線を横断していた男性が米兵が運転していた車にはねられたことが端緒として沖縄県民の怒りは爆発しました。アメリカ車を見ると横転させ、火をつけました。最終的には五千人の県民が暴動に参加したのです。これがいわゆるコザ暴動でした。 基地の50メートルほど手前の道路にオレンジラインが引いてあり、「此処は嘉手納空軍敷地の境界線です。許可のない立入りを禁じます。基地司令部の命による」と書いてありました。
米軍基地内は治外法権であり、アメリカの法律が適用されるとまことしやかに言われますが、そうではありません。
米軍の施設及び区域は、日本の領域であり、日本政府が米国に対しその使用を許可しているだけです。日米間で結ばれた「日米地位協定」によって地位協定の運用は、日米両国政府間で協議することとされています。 また、那覇市内ではよく不動産で「軍用地を買います」という文言を目にします。軍用地とは米軍基地および、自衛隊施設として使用されている土地を指します。これらの多くは、国が個人所有の土地を強制的に借地したもので、その上で米軍基地や自衛隊施設として提供しているというのが現状なのです。現在、国は借地料として地主に年間900億円以上を支払っています。 沖縄の道路標識は字が薄くなっていたり剥がれている標識がかなりあります。
強烈な紫外線や潮風(沖縄で自転車に乗っている人はめったに見ませんが、一度だけ見かけた二人連れの小学生の前カゴはどちらもひどく錆びていました)で標識が劣化しやすいのかわかりません。それにしても「テゲテゲ」です。 ふとバンコクのコンビニで、迷い込んだ野良犬を警備員がしゃがんで頭を撫でていた光景を思い出しました。
「小さいことは気にしないさー、なんくるないさー」と標識が語りかけてきたような気がしました(嘘です)。
今はプロ野球の春季キャンプだそうです。私は野球に関心がないのですが、「キャンプって選手が飯盒炊さんしたりキャンプファイアして親睦を深めることと思ってました」と言ったT君ほど無知ではありません。 一泊目のホテルには広島カープの選手が宿泊しているらしく「選手への握手、サインなどは控えるように」と注意文が書いてありました。
もし選手に遭遇しても私には衣笠か古葉監督しかわかりませんが(あとでネットで調べてみたらお二人とも物故されていました。失礼しました)。
ひめゆり資料館では出てから小六の娘が募金箱に二千円を入れようとしました。
彼女なりに何かを感じ取ってくれたのが嬉しかったです。二千円は多いと押しとどめて千円にさせましたが。
魅せられて終の住処にする人も多い沖縄。空港まで迎えに来たレンタカーのスタッフ、大阪生まれで27歳のガタイのいい好青年(趣味は筋トレ)も修学旅行で訪れた沖縄が忘れられず、ついにこちらにやって来て三か月。
最初は友だちがいなくて毎日泣いていたそうです。
気持ちはわかります。観光と実際に住むのでは大きなギャップがあるでしょう。
それでも自分の夢に忠実なこの青年をオジサンとしては応援したい気持ちです。
もしいつか再び会う機会があれば、近況を聞くのが楽しみです。
私は島に向かう途中で見たサトウキビ畑が網膜に焼きついたままです。
あ、またTHE BOOMの曲がリフレインし始めた…。




「末日聖徒イエス・キリスト教会の夫婦が沖縄神殿に行って帰りにタコスを食べたこと」

神殿行き。
金曜日の夜から神戸空港のスカイマークで沖縄へ。搭乗待合室にあるテレビに何気なく目をやると中山美穂の死去のニュース。周辺がざわつく。

今回の沖縄は観光は一切なく、神殿参入のみ。
レンタカーもなし。ゆいレールでホテルへ。

ホテルの斜め前の料理店のリニューアルオープンお祝いの花輪にはなぜか横浜流星の名前が。

ホテルから歩いて15分、国際通りの「ステーキハウス88」に行く。
サラダ、ライス、スープのバイキング。追加料金でブルーシールのアイスとソフトドリンクが付く(これもバイキング)。
店員は外国人ばかり。沖縄の失業率は全国ワースト1だが、飲食店はやはり不人気らしい。入店したのは夜の9時過ぎだったが、10時を過ぎるとお客が続々と入ってきた。沖縄人がシメにステーキを食べるという都市伝説(?)は本当だったのか。

翌日は朝から雨。7時半にホテルを出て高速バスで1時間ほどで神殿へ。朝食は近くのコンビニで買ったおにぎりとバナナジュースで済ませる。

神殿で待っていると、「安室」というネームタグをつけた男性が「どちらから?」
大阪からです、と言うと破顔一笑、握手を求めてきた。
「大阪神殿、おめでとうございます!私は40年前大阪で伝道していました」

いやー、こんなに喜んでくれるとは。こちらの方が感激した。

セッション後、一階に降りていくと長沼夫妻が受付をしていた。神殿の近くに住むのが夢で神戸から沖縄に移住された。

そして最後のセッション終了後に神殿の写真を撮る。雨は上がっていたが曇天。
神殿から出てきたご夫婦にツーショットを撮っていただいた。

「大阪からですか。私も40年前に大阪駅で宣教師に声をかけられて教会に入りました。天満支部(今はない)に通ってました。それから沖縄に帰って結婚したんです」
花城というお名前らしい。

お礼を言って歩き出す。今年の二月に沖縄神殿に行った時にタコス発祥のお店「チャーリータコス」に行き、時間がないのでテイクアウトして車中で食べた。それがあまりにも美味しくてゆっくりと店内で食べたいと思っていたのだ。
お店までは2キロ弱、歩けない距離ではない。
数メートル歩いたところで駐車場で声をかけられた。先ほどの人が手招きしている。車で送ってくれるそうだ。

お家は宜野湾の普天間飛行場の近くだそうだ。恐縮して「適当な場所で降ろしてください」と言うと、「沖縄では送るというのはdoor to doorが普通ですから」と花城兄弟が言う。

本当にお店の前で降ろしていただいた。走り去る車に何度も頭を下げる。

店内には来店した芸能人の写真がところ狭しと飾ってある。内田有紀、宮川大輔、ダ・バンプ、石塚英彦、多すぎてわからない。一般の人の色紙も張り出されている。山形から来た人もいた。

ツナ、チキン、ビーフタコスの三点とソフトドリンクのセットを注文(1000円)。

花城兄弟に「今までいろんなタコスを食べてきましたが、あんなに美味しいタコスは初めてでした」と車中で言うと、嬉しそうにニコッとされた。

ソフトドリンクはルートビアをチョイス。無料でLサイズにできるらしい。

妻は少食なのでタコスを一つだけ注文したが、食べ終わるとさらにタコライスをオーダー。
半分づつ食べたが、これも絶品。

5時前には8つあるテーブルが満席になった。
コザ(沖縄市)は凋落が激しく、商店街も「チャーリータコス」だけが気炎を上げている。

30分歩いて空港行き高速バスの停留所へ。

帰宅したのは既に日を跨いでいた。

ふと、花城兄弟のことを考えた。40年前に沖縄から出てきて大阪で改宗した兄弟と神殿で偶然に会い、車で送ってもらう。点と点でいえば、あり得ないほどの接点だ。ひょっとしたら偶然ではないかもしれない、と。

 管理人マーキュリーマークからの伝言

今回は特別に今年二月の沖縄訪問についての投稿だけではなく今月の沖縄訪問についての投稿を同時に投稿しました。良き人々に出会えたばかりか奥さんと良き時間を過ごせたので幸せなようです。
霊的に過ごすばかりか黄金律を踏まえてるから祝福があったに違いありません。 御霊の導きではないでしょうか?

海外旅行の時には利用しなかったが沖縄では利用したレンタカー。
第三者の海外旅行記ではレンタカーを利用したお話がございます。
一方でドリアン長野は海外ではレンタカーを利用していません。
利用の妨害はしませんが事故が発生する恐れから推奨もしません。
この部分についての理解を皆さんに求めます。

敬具 マーキュリーマーク

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回顧を兼ねた書評 令和二年三月



僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


管理人マーキュリーマークからの伝言
上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
令和六年にドリアン長野は親子で
ケアンズ旅行。
 

ランニングについての投稿




ランニング(特に早朝)をすると
眠気がふっ飛ぶ
血液が循環する
走っている時は悩みを忘れる
デトックスになる
街中の新しい発見
脳から快感物質が出る
一日爽快感が続く
大阪城公園〜坐摩(いかすり)神社の紫陽花