2024年7月15日月曜日

海外旅行記とご連絡 2024

平成21年以前にドリアン長野は何度も海外旅行しました。
長期間の空白が経過した後、令和六年に親子で渡航されました。
順不同

豪州 (ケアンズ  タイランド(バンコク)   英国(ロンドン)

米国(ニューヨーク、ミシガン、ニュージャージー並びに、ロサンゼルス

メキシコ(ティフアナ)  台湾(台北) ベトナム(ホーチミン)

マレーシア(クアラルンプール)   ミャンマー(ヤンゴン、モン州)

カンボジア(プノンペン、シェムリアップ) ネパール(カトマンズ)

インド(デリー、ベナレス、西ベンガル州) フィリピン(マニラ)

香港と中国(上海そして北京


ミディアムパープルは抜粋で利用します。
ダークグリーンは特筆すべき内容で利用します。  
ドジャーブルーは題名で利用します。
ライムはブロガー版では文字リンクと本文の色が紛らわしいので利用しました。 

 ドリアン長野はいつ頃、旅したか?

 可能な範囲で推察し時系列順に順序立てたが間違えてるかもしれないので参考程度にしてもらいたい。 ドリアン長野にとって最初の渡航はインド旅行ですが初めての発表はバンコク旅行記です。 赴いた時はドリアン長野本人しか分かりません。 順番は前後してるし幾つかの海外旅行記は渡航した時が不明確です。 
 略歴
 昭和62年の年末から昭和63年の年始はインド旅行。
デリー、ウェストベンガル州等を旅されました。
 平成元年の年末から平成二年の年始は米国のニューヨーク旅行。
この時、ミシガン州デトロイト市だけではなくニュージャージー州も訪問されてます。
 平成六年の年末から平成七年の年始は英国のロンドン旅行。
 平成七年の年末から平成八年の年始もしくは、平成八年の年末から平成九年の年始に米国のロサンゼルスとメキシコのティフアナを旅したようです。平成八年の海外旅行記か?
ティフアナへの訪問を含むロサンゼルス旅行記については時期を明確化するのは不可能でした。
 平成九年の五月は台湾の台北旅行。
平成九年七月以前に返還前の香港を旅したそうです。
平成十年四月から平成16年四月以前はネパールのカトマンズ旅行。
ネパール旅行記については時期を明確化するのは不可能でした。
平成12年の大晦日にベトナムのホーチミンを旅したようです。
平成13年にドリアン長野はタイランドのバンコクへ三回渡航してます。 内訳は一月(年始)、夏と年末です。 
 平成13年12月にカンボジア(プノンペン、シェムリアップ)、平成13年12月30日から平成14年の元日はタイランドのバンコク(カオサン)、平成14年の元日から一月二日頃にフィリピンのマニラを旅して日本への帰国便に搭乗したようです。

 平成15年3月から平成19年の夏迄はgoo簡単ホームページを通じてドリアン長野は海外旅行記を発表されてました。

 北京旅行記を発表したのは平成15年十月ですが渡航した時期は不明です。 北京を旅行した後で上海旅行(第一回目)されたようです。
平成八年から営業してる上海のローソンを利用した最初の上海旅行記を発表したのは平成15年ですが渡航した時期は不明です。北京旅行並びに第一回目の上海旅行について時期を明確化するのは不可能でした。
 マレーシア旅行記(クアラルンプール、ヌグリ・スンビラン)を発表したのは平成16年ですが渡航したのは平成十年から平成16年のようです。
このマレーシア旅行記についても時期を明確化するのは不可能でした。
 平成16年の五月以前は香港旅行。
 平成16年の年末から平成17年の年始はドリアン長野にとって二回目の上海旅行。
 ミャンマー旅行記(ヤンゴン、チャイティーヨー・パゴダ等)を発表したのは平成18年一月から四月ですが平成13年以後という部分以外は渡航した時期は不明です。
平成18年四月から九月には独身の時に海外旅行した時を振り返って再投稿されてました。平成19年の年末から平成20年の年始はご夫婦で香港とタイランド(バンコク)へ新婚旅行されました。
ドリアン長野は平成19年11月に結婚し平成25年にフェイスブック上で新婚旅行記を投稿しました。
 一度の海外旅行で複数の外国を訪問した旅行記は存在します。
 各旅行記毎の備考
 昭和62年の年末から昭和63年の年始はインド旅行。
インド編その1
私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。

ドリアン長野は1961年生まれ。 1961+26=1987
年末年始旅行ならば1987年から1988年にインド旅行したに違いありません。
インド編その8 早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。
よりも「早朝、西ベンガル州のハウラー駅に着く。」の方が適切な表現になるようです。
理由はコルカタ(カルカッタ)とハウラーの両者は西ベンガル州内の街なんですが対岸の街であって別個です。 それでは「ベンガルの東部は?」と質問されたら「バングラデシュとして1971年に独立しました。」と返答致します。

 平成元年の年末は米国のニューヨーク旅行。
 旅費について支払先を選ぶのは自由です。渡航前に航空会社、又は船会社並びにホテルの予約、海外旅行保険等の旅費の支払について各企業毎に行うか否かは各自で御決断下さい。 私は海外旅行の為に地元の旅行代理店でフリープランと海外旅行保険の料金を支払いました。フリープランとは交通費、宿泊費、税金等の料金を一括した旅行商品です。詳細は各自で調べて下さい。渡米するなら電子渡航認証(ESTA)は必須です。
ニューヨークの地下鉄は1980年代と2010年以降を比較すると支払方法ばかりか乗車賃も大違いと言われてます。法規制や金額等は現状とは異なります。 詳細は各自でお調べ下さい。
NYタイムズ・スクエア編
1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。
NY地下鉄編
地下鉄は楽しい。メタリックでアーバンである地下鉄は輸送手段に徹していて媚びないところがクールでもある。私は地下鉄が大好きだ。地下鉄のある都市に行けば必ず乗る。用がなくてもとにかく乗る。今までいろいろな国で乗った。香港ではなぜか下駄履きで乗った。肩を叩かれたので振り向くと、若い男が私の下半身を無言で指差している。見るとズボンのジッパーが全開していて恥ずかしい思いをした。ソウルではおじいさんに声を掛けられた。私が日本人だと分かると日本語で身の上話を始め、それが延々と続いて閉口した(今思い出したけど、何で地下鉄の便所内にコンドームの販売機があるとですか?)。
NYホテル編
とにかく、そんなこんなでようやくたどり着いたホテルのフロントは言った。 「満室です」 があ~ん! こんな夜中からホテル探しか~い。


旅行するなら、旅費の大半を旅行代理店で支払うか、必要経費を企業毎に支払うかの二択です。残念ながら、旅行代理店が経営破綻した前例はございます。
 王侯貴族や政治家は例外か?
 旅費については未払いではなく支払先や支払方法が選べるという主張です。 現地に到着してから宿を探すより日本で予約です。


 平成六年の年末から平成七年の年始は英国のロンドン旅行。
昭和の1970年代と平成の1990年代は大違い。皆さん、渡航前に海外旅行案内書等で最新情報を得ておきましょう。 uk-eta.jp
ロンドン・コーリング
ロンドンといえば、僕にとってはパンクなんですよね。
その時は1994年でした。
(中略)
えっと、あと年末だったんで、トラファルガー・スクエアのカウントダウンにも行ったんですけどね、なんだかんだ言っても、イギリスはヨーロッパの中心だと思ったのはね、僕の分かる限りでも、スペイン人、ドイツ人、スウェーデン人、イタリア人、ポーランド人、フランス人、スイス人、あとインド人と中国人と日本人がいたことですね。ええ、4時間その広場をうろついてましたから。


 平成七年の年末から平成八年の年始か、平成八年の年末から平成九年の年始はロサンゼルスとティフアナ旅行。旅行記を発表したのは平成16年。 ヤオハンは平成九年の夏迄は営業したようです。 平成六年の年末から平成七年の年始に渡航した英国でジョイスさんと会われた後に米国で年末年始に再会したので平成八年?陸路で米国からメキシコへ行くのは複雑化したそうです。店舗や出入国の法律は過去と現在で異なる事がございます。 渡米するには電子渡航認証のESTA等が求められます。 メキシコへの渡航については各自で調べてもらいたい。
申し訳ないがgoo簡単ホームページの内容を転載する期間は60日未満だったので幾つかの作品は欠落してます。

 バハ・カリフォルニア州のティフアナはトヨタの工場が操業しているだけでなく治安が悪いので有名です。
 平成18年から平成26年にアエロメヒコが成田からティフアナへの直行便を運航してましたがドリアン長野はそれを利用しないで渡米後にメキシコを旅行したので日本からメキシコへ直行していません。
米国のロサンゼルスとメキシコのティフアナ旅行記からの引用
のっけから何だが、私はロサンゼルスが嫌いだ。それはなにも私が九時間以上も飛行機に乗ってやっと到着した空港をボ~ッと歩いていた
(中略)リトル東京で「ヤオハン」の場所を尋ねた日系の老人には、「夜は独りで歩かないほうがいい。巡査は外国人に偏見を持っているからな」と忠告された。
(中略)夕食はチャイナタウンに食べに行った。今日は大晦日なので閉まっている店がほとんどだ。
(中略)メトロのブルーラインに乗ればサウス・セントラル地区まで行くことができるのだが、私もそこまで無謀ではない。
(中略) ユニオン・ステーションで21時発サンディエゴ行きのアムトラックに乗る。ロンドンで知り合ったジョイスに会うためだ。彼女は元看護婦のおばあさんで、今は離婚してロサンゼルスとサンディエゴの中間ほどにあるオーシャンサイドに独りで住んでいる。
(中略)我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。


 平成九年の五月は台湾の台北旅行。台湾旅行記は悲しい短編です。
ゴールデンウイークに快晴でも、悲しい事件が発生しました。
シャオエン
1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。
日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。


 ネパール旅行記については時期を明確化するのは不可能でした。
 憶測ですが平成十年の夏以降か平成11年頃はあり得ます。
 平成十年四月から平成16年四月以前にネパール旅行か?
 中山可穂先生が執筆した熱帯感傷紀行の初版本は平成十年四月に発売。
 ネパール旅行記は「カトマンズの夜」と「カラテ イン ネパール編」の二部構成です。両者共に平成16年四月以前です。
平成15年9月以前にネパールとして発表した旅行記を後に再編集したカラテ イン ネパール編に限っては平成18年四月に発表。
平成16年四月にカトマンズの夜を発表。
 ドリアン長野は海外に長期間滞在した訳ではありません。
 国境越えを果たした極真空手。日本と海外の比較は楽しめます。
nepaliport.immigration.gov.np
カトマンズの夜
中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。
著者はインドネシアを旅していたのだが、「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」

カラテ イン ネパール編
「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 
なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~、思わずヒザがかっくんとなっちゃったじゃないの。でも良かったわ、会えて。みんなに連れられてすぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。
先生は八畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁という壁の至る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。
私(ドリアン)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)


ベトナム、タイランドを旅行後にカンボジア、タイランド、フィリピンに渡航したお話の解釈は難しかった。


マニラ旅行記(マニラのスラム)の作中で取り上げられてた浜なつ子先生が執筆されたアジア的生活(書名)は平成12年八月に発売されました。
 ホーチミン市のディスコ
「今晩、ディスコに行かないか?」バイク・タクシーのヒューはメコン・クルーズのボートの中で聞いてきた。今日はニューイヤーズ・イブだし、社会主義国のディスコってのも気になるしな。
(中略)私は日本ではクラブに行かないので分からんが、ハウスはああやって金魚踊りをするのが主流なのか? 誰か教えてくれ~。こうなれば次に狙うのは〇〇エリアで有名なシーロム通りのソイ4じゃい。金魚野郎ども、首を洗って待っとけ!
 テーメー・カフェ
2001年の1月、ソイ・カウボーイに行こうと友人とスクンビットを歩いていたら、怪しいネオンサインに縁取られた看板が目に入った。その看板に書かれていた文字を読んで私は思わず息を飲んだのであった。「テーメー・コーヒーハウス」 思えばこれがテーメーに集う怪しくもしたたかな人々と私とのハートウオーミングな交流の始まりであった(嘘)。 (中略)
半年後、私は別の友人とテーメーにいた。人生はどこで何が起きるか分からんもんである。
 カオサンの大晦日
カオサン通りでのニューイヤーズ・イブは一体どうなっておるのだ、という素朴な疑問を抱いた私はその実態を解明すべく、2001年12月30日と31日にカオサンに宿をとった。

 カンボジア旅行記
下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。
(中略)だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。
(中略)僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。 「OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら

 マニラのスラム
夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。


ドリアン長野がタイランドに行く予告をしたベトナム旅行記を発表したのは平成15年です。
 ホーチミンに赴いたのは平成12年の大晦日(ニューイヤーズイブ)のようです。その後、バンコクのシーロム通りに赴いてます。
平成13年(2001年)だけでバンコクへ少なくとも三回は渡航してます。
内訳は一月(年始)、夏と年末です。 カオサンはタイランドのバンコクに存在する街です。
 平成13年の夏に限ってはタイランドの首都バンコクのみ旅行したようです。 2001年一月の半年後は平成13年の夏です。
平成13年12月28日頃にカンボジア、平成13年12月30日から平成14年の元旦頃はタイランドのバンコク(カオサン)、平成14年の元旦か一月二日頃にフィリピンのマニラに到着し帰国便に搭乗したようです。
カンボジア旅行記内で平成12年に発売されたOASISのROLL IT OVERについて語られてました。
渡航した時が明確な旅行記はともかくですが旅行記の内容で渡航した時期を推察した旅行記はございます。
乗継便は存在するので一度の旅で複数の国々を旅行した人はおられます。
人によっては同じ日に異なる外国にいますし期間がまたがるのは仕方ないです。

続 北京の床屋
諸君、北京に来たら安心して調髪してもらえよ。その前に料金はちゃんと聞いておくように。体はきれいだったが、お金もきれいになくなった。ふっ、私の思い過ごしだったようだな。疑って悪かったぜ。
だけど中国人、ぼるなよおおおおお~っ!!(魂の叫び)
しかし、中国はこれで終わるほどまだまだ甘くはなかった。(というわけで上海編につづく)

飛んで上海
夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。(中略)
これで用は済んだと思ったが、極悪人の猪瀬はその後、信じられないことを言ったのだ。
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。渋々100元だけは渡したが、あとの100元は絶対に払えんっ! と長い間言い争った。(中略)
どうやらここは上海のはずれのようだ。
 その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。


 北京旅行並びに最初の上海旅行(飛んで上海)について発表したのは両者共に平成15年ですけど渡航した時期を明確化するのは不可能でした。大雑把な時期を伝えるのが関の山です。
 平成八年から営業してる上海のローソンは平成15年には百店舗以上出店してたそうで旅行中に利用したそうです。
誤解の無いように伝達しますがドリアン長野は海外に長期間滞在した訳ではないです。 観光旅行と政冷経熱は大違いでしょうか?
渡航者によっては一度の旅で複数の町や国々を訪問されます。
海外では日本の景品表示法が存在しておりません。上海虹橋国際空港からホテルへの移動は不良タクシーを選んだので艱難辛苦だったようです。
 空港連絡鉄道の役割は大きい。 nankai.co.jp

 
自分は過ぐる夏、マレーシアに旅した。わが朝のポップスは亜細亜市場を席巻している。街をうろついて聞こえてくるのは宇多田ヒカルだ。自分はクアラルンプールの「タワー・レコード」で宇多田のテープを邦貨、六百円で購った。そしてセレンバンという街を目指し、列車に乗った。


 ドリアン長野がマレーシア旅行記(ほぼエッセイ)を発表したのは平成16年四月です。 渡航した時期を明確化するのは不可能でした。
 宇多田ヒカルは平成十年に歌手活動を始めました。平成十年から平成16年に渡航したようです。憶測ですが平成14年か15年の夏はあり得ます。 過去の渡航を懐古してるのである意味において異質です。多くの海外旅行記を執筆したので例外的な作品は不可避だったようです。
食品方面は人それぞれ方針があります。食品アレルギーや宗教上の理由で避けてる飲食品はございます。 無理強いは辞めましょう。
マレーシアのヌグリ・スンビラン州のスレンバンはセレンバンとも言われているそうです。 街の説明は時に難しいです。

香港には返還前にツアーで行ったことがあるだけだ。(中略)
ここは既に満室で、15階の「オーシャン・ゲストハウス」を紹介された。
(中略)エアコン、ホットシャワー、TV付きで130HKD(1HKD≒16円。2004年当時)。(中略)
「えーっと、いくらだっけ?」と店のオヤジに聞くと、「199(HKD)だ」と言うので払って出てきた。
近くの通りにある「スタバ」でぼーっとしていると、はっとした。待てよ、199いうたら、めちゃめちゃ高くないか? あわててレシートを確かめてみると、99HKDになっとるやんけ。あーっ! やられたーっ! 100ぼられたやんけーっ!けど、 わっかっとる、悪いのはこのおれやあっ。おれがあほやったんやあー。騙されたんが悪いんや。今からその店にねじりこみに行ってもレシートに書いてあるさかい、どもならんわ。しかし、腹立つからその店の名を書いておこう。チョンキン二階にある「マハラジャ・プロビジョン・ストア」だ。


単体の香港旅行記として成立してるのは平成16年五月以前の香港旅行記のみです。ドリアン長野は三回香港旅行されました。内訳は中国返還前(平成九年七月以前)、前述した平成16年五月以前と平成19年の年末から平成20年の年始にかけての新婚旅行です。 皆様、お店の請求金額は気を付けましょう。

 上海日記 1日目
12月19日
年下の友人K君から何年か振りに電話があった。四方山話のうちに彼が言った。
「ドリアンさん、僕今年パスポート取ったんですけど、一緒に海外旅行行きませんか」
「そりゃいいけど、年末まで10日しかないで。もうチケットは残ってへんで。あったら奇跡やわ」
(中略)
 年末のチケットいうたら二か月前から予約すんで、フツー。
 上海日記 4日目(続々々)
 2005年の始まりは上海だったかと感慨にふけりながら歩いていると、途中で浦江飯店に宿泊していたバックパッカーたちと出会う。


 平成16年の年末から平成17年の年始はドリアン長野にとって二回目の上海旅行(上海日記)。相談から始まってる旅行記ですが現在は渡航の相談は受け付けてません。渡航にはパスポートが必須です。
私はKさんではありません。平成27年八月に旅費を支払ってから十月にカナダのバンクーバーを一人旅したが上海には訪問してません。
「飛んで上海」に限っては平成15年十月に発表。 「上海日記」は平成17年一月から九月に発表した長編です。提案が悪い旅行商品は買えません。
余裕を持って行動しましょう。 緊急に渡航する人の為に販売するならまだしも告知した日に催行日が50日未満だとおかしいです。

 ドリアン長野は平成18年にミャンマー旅行記を発表しました。
その翌年に取材中のジャーナリストが殺害される悲劇が発生しました。
ビルマの休日 その1
フライトは11時半だ。もう間に合わない......。がっくりと肩を落し家路につく。これは大使館のやつらの怠慢に違いない。チケット代を弁償させてやる。九時になるのを待って電話した(何回電話さすねん)。
「ビザ来てませんがっ!」
「送りましたけど。ゆうパックで」
「えっ?」
「料金が不足していたので着払いで送りました」
「あっ、そ、そうですか。どもどもども」
郵便局に確認すると確かに来ていると言う。フライトまで二時間しかない。俺はあわてて部屋を飛び出し、自転車に胯がった。

ビルマの休日 その12からの抜粋
どうやら違う路線に乗ってしまったらしい。今晩は野宿かなと思っていると、しばらくして終点に着いたらしく、みんな降りていく。さて、どうしたもんかなと、とりあえずにぎやかそうな方向に歩いて行ってみる。そこはゲストハウスと看板が掲げられていて、一階はゲーセンになっている建物だった。入口に立っている若者に聞いてみると、なんだかんだと他の若者が集まってきて協議を始め、近くのホテルにバイクで送ってくれることになった。ここに泊めてくれればいいと思うのだが、ライセンスがないので外国人は泊めることができないらしい。

ビルマの休日 その14からの抜粋
明日がイギリスからの独立記念日だということで遊戯場のような所で小学生がダンスを練習していた。
「この教室は日本政府と民間団体からの寄付で2001年に建てられました。寄付金が一番多いのは日本です」
チョウチョウさんがひときわ大きな教室を指差す。


この旅行記について時期を明確化するのは不可能でした。旅行記内で平成13年(2001年)に建築された教室のお話がございました。
 ドリアン長野がミャンマー旅行記(ヤンゴン等)を発表したのは平成18年です。大雑把な時期を伝えるのが関の山です。誤解の無いように伝達しますがドリアン長野は海外に長期間滞在した訳ではありません。 恐らく渡航したのは平成17年の年末から平成18年の年始のように思います。 平成29年よりバングラデシュから陸路でミャンマー旅行するのは政情不安で不可能ですので推奨しません。 観光ビザ等の手続きは余裕を持って行いましょう。
 平和であった時期の旅行記です。海外でのバスの利用は日本より難しいです。 


 2010年に空港連絡鉄道がバンコクで開通。

 2007年の年末から2008年の年始はご夫婦でタイランド(バンコク)と香港へ新婚旅行されました。ドリアン長野は平成19年11月に結婚し平成25年にフェイスブックで新婚旅行記を投稿しました。2006年9月28日に開港したスワンナプーム国際空港。長野夫妻はその翌年に利用しました。
 単なる提案ですが「2007年に新婚旅行した。早朝の6時半に家を出て夕方の4時過ぎにバンコクのスワンナプーム空港に着いた。この空港は夫婦で訪れる前年(2006年)に開港したばかりだ。」と言った文面でも悪くないです。
 試練はありますが2012年には一人娘もおられ良きご家庭を作られてます。

【夏が来れば思い出す】その3より引用
 早朝の6時半に家を出て夕方の4時過ぎにバンコクのスワンナプーム空港に着いた。 この新空港は去年開港したばかりだ。
旧空港のドンムアンに比べると物凄く近代的だ。

【夏が来れば思い出す】その4
夜も遅いので仕方なくタクシーを拾ったのだが、大通りを飛ばし、裏通りを抜け、ものすごく遠回りをして目的地に着いたのだった。道路工事や一方通行規制もあって一概には言えないけど、ぼったくりだな。230円だったけど。

 回顧を兼ねた書評 令和二年三月より引用
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。

 旅支度について
 パスポートの入手、渡航先の選定、旅先の海外旅行案内書を購入して読んで
予習、必要なら電子渡航認証等の申請や観光ビザの所得、外国語の学習、旅費と休暇の捻出、複数存在する旅に必要な商品の購入、外貨の保有、交通費、宿泊費、海外旅行保険の支払い等を済ませないとお気楽に海外旅行は行えません。


 特例的に時計並びに渡航について伝えます
 チョンキンの夜は更けて
話のネタにと、ニセ・ブランド時計の客引きに声を掛けたら、ここに連れてこられた。
(中略) 
 ちなみに私は腕時計は持ってない。ケータイの時間表示で充分だし、海外に行くときは電池で動く、ちっこい目覚まし時計を持って行く。
 オリエンタル・ホテル
時計が紛失していたのでクレジットカードからその代金を引き落とさせていただきますってな。それがなんで2000バーツになるんじゃい!


 タイランドのホテルの時計を盗むと2000バーツ請求されるので不正は辞めましょう。 当時の為替相場は1バーツ約¥2.7で¥5400。 平成30年に私はセイコーの置時計を¥1900で購入。時計は日本国内で普通に買うべきです。 海外旅行中は日付変更線を考慮した上での行動も必要になってきます。

 ドリアン長野はケータイと置時計を利用しました。 私は置時計、懐中時計、腕時計を利用しました。渡航先の時間に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を各一個は利用すべきです。 組み合わせは自由ですが渡航するなら時計を二個以上は用意しましょう。 そうしなければ出発便や帰国便に乗り遅れます。 帰国後は日本時間に適合させました。置時計は電子音を鳴らさない為に乾電池を入れず時計の外側にテープで張り付けてカナダのホテルの部屋の中でiPadの世界時計を見ながら日付や時刻を設定して利用し帰国日には乾電池を時計から抜きました。 渡航中に時計一つで犯罪の被害にあうと挽回が難しいです。
 置時計用の腕時計を用意するのも有効かな?


平成27年のカナダ旅行前に旅行代理店の店員から「単純な時計を二個利用して下さい。」と言われました。組み合わせは自由です。電波時計は利用不可の外国が存在しますし長袖を着用してると太陽光発電は不可能で安価な電池式の時計の存在は大きい。
スマートウォッチは頻繁に充電しないといけないので推奨しかねます。
海外で腕時計の電池交換をするよりも日本国内ですべきです。
 香港で偽造時計を買うよりも日本で正規品の購入です。

補足説明。
ドリアン長野は、2009年以前の海外旅行ではセイコーの小さい置時計とケータイで済ませてましたが2024年のケアンズ旅行の際には腕時計も利用されました。
置時計の代わりに音が鳴らない腕時計を日本国内で購入して日付と曜日も含めて現地時間に調整し海外で利用するか否かは各自で御決断下さい。

 直行便、経由便、乗継便はそれぞれ異なる
直行便を利用して目的地に到着する旅行者はおられますがそれだけではありません。経由便や乗継便を利用して渡航される旅行者はおられます。航路がまるでくかへを描くような移動をされた旅行者はおられたやもしれません。距離によっては燃料補給が必須なんです。 毒蛇ではないがハブ空港の存在は大きい。
経由便の乗客は到着した空港内で別の飛行機に乗り換える時は別として基本的に乗り続けるのみですが乗継便の乗客は途中降機が行えるそうです。逆説的には、途中降機をして別の飛行機(別の航空会社も含む)を利用される人はおられるようです。

 国境越えについての見解
 過去に国境越えが行えても後に出入国の法律が変更したなら行えるか否かは不透明です。 海外旅行中に国境越えするにしても陸路、海路、そして空路に大別されます。 空路の場合は経由便や乗継便を利用された旅行者は多いです。
 私は関空から直行便に搭乗し空港近辺の町のみ滞在したので陸路で国境越えはしてません。一度の渡航で複数の国々を旅した人はいます。ドリアン長野は渡米してからメキシコへ陸路で国境越えをしました。 パスポート、観光ビザ、電子渡航認証よりも重視されているのは公衆衛生か?コロナウイルスの悪影響は大きかったです。出国税の支払いは日本政府に対しても必要です。各自で渡航の為にどういった行動が必要かはお調べ下さい。


 入国審査が終わった後にどうすべきか?
 出国前に空港からホテルへ行く方法は調べましょう。
 私は海外旅行する約二か月前に保険料、航空運賃、宿泊費、送迎バス等の代金を旅行代理店で支払いました。
 航空会社、ホテル、海外旅行保険等の企業に直接依頼する旅人はおります。
 宿の予約をしなかったら渡航先で宿を探す旅になるので推奨出来ません。
荷物を借りた部屋の中に置いてから真っ先に目的地に行くのも悪くありません。
 だが、ホテルで販売されてるミネラルウォーターは高値なので近所のお店でご購入されるのを提案します。滞在先の時を考慮した時計の時刻調整とお水の用意は重要です。 実行すると幾分は安心ですが旅行の期間等で賛否は大別か?
 自宅の冷蔵庫に飲み物を入れて出国も重要?

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 詰問するストーカーは犯罪のほう助が目的なのでブロックすべき

 平成23年に嫌がらせの連絡をされました。某ホームページを紹介してたからです。 gooブログは事前承認制が導入されてる。
 平成24年にドリアン長野と再会した時に紹介を辞める提案をして黙認されました。 災害級の苦難は同情するが不要な共闘はしません。
私がカナダ旅行中に毎日フェイスブックを通じ詰問されて防犯の問題があり困りました。言い訳は役人並に上手だと確認したので某月刊誌も買うの辞めました。
 紹介の再開を目的に弱みを握りたかったか? 共同不法行為も知らずに令和になってからも別人から連絡があり辛いです。
レインクーバーが語れるようになったので「渡航した事ない人が海外旅行のブログをしてる。」と言われなくなりました。
 「あいつ、カナダ旅行する時に絶対に不正行為をやらかすに違いない。それを踏み台にして紹介を再開させたいので毎日フェイスブックのタイムラインに詰問して。」といった依頼を受けた人がいたので返答しても損をすることはあっても得することがない書き込みをされて防犯上の問題があり大変困りました。
 マトメ
ドリアン長野の海外旅行記は2009年以前に何度も海外旅行した話で私が整理整頓して再発表しました。出入国の法規制を始め多くの部分において過去と現在は異なるので渡航前に各自でご確認下さい。 外務省海外安全ホームページ
 海外でタクシーやレンタカーの利用は推奨しません。治安が悪い街へ赴く事は危険なので辞めましょう。事前に渡航先の海外旅行案内書を読んで下さい。上海旅行は友人からの相談で始まってますが現在は問い合わせを受け付けてません。 外国語ですが挨拶位は学びましょう。
 海外旅行保険の加入は必須です。 kaigairyokouhoken.com
 具体的に渡航した日は明確にして旅先を述べてほしいです。
 旅行記毎の伝達事項ですが日本との時差、電子渡航認証、区分け等については見直しました。平成29年の夏に頻繁な投稿をするのは難しい状況を伝えた所、「無理しなくて良いから。」とドリアン長野から返答されました。 今後は月の初日から14日迄に一度は投稿と14日から月末迄に私からの連絡をする予定です。ドリアン長野が管理人をしているホームページのみ楽しんでもらっても構いません。 ドリアン長野の読書三昧   ドリアン長野フェイスブック

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 出入国に関わる法規制は激変してます。米国がメキシコに壁を作る計画があるそうです。 出国税は日本でも課税されます。電子渡航認証は注目されてます。 為替相場ですが1バーツは平成十年代には¥3以下でしたが令和六年三月には¥4を上回ってます。公衆衛生も問われています。コロナの悪影響は大きい。

私はドリアン長野から頼まれ平成19年に終了したgoo簡単ホームページの開設を平成15年に手伝いました。転載出来ずに欠落してる海外旅行記は存在します。
yahooブログの代替としてブロガーとはてなブログを利用します。ドリアン長野は配偶者の発病で困ってますので不要な質問は控えています。


令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。
 コラム 2024
敬具 マーキュリーマーク

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回顧を兼ねた書評 令和二年三月



僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


管理人マーキュリーマークからの伝言
上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
令和六年にドリアン長野は親子で
ケアンズ旅行。
 

ランニングについての投稿




ランニング(特に早朝)をすると
眠気がふっ飛ぶ
血液が循環する
走っている時は悩みを忘れる
デトックスになる
街中の新しい発見
脳から快感物質が出る
一日爽快感が続く
大阪城公園〜坐摩(いかすり)神社の紫陽花