虎ノ門といえば真っ先に思い出すのが大正時代に起きた虎の門事件。大正天皇の摂政、裕仁親王を狙撃したステッキ仕込み銃は伊藤博文がロンドンで買って人づてに難波大介に渡ったというのは歴史の皮肉か。何十年もの昔、幸徳秋水の墓所を訪ねるために高知の中村市を訪ねたことを思い出した。
【地下鉄中央線の恐怖】 平成26年8月 2014/8/8(金) 午後 9:56
「今日の会議で、『何か意見は?』って聞いたんや。シーンとして誰も何も言わへんからな、太田に名指しで聞いてみたんや。そしたら太田のやつ、『同感です』やて。笑うやろ」
「あの、それが何か…」
「これがホンマの太田道灌!
なんちゃって、うわっはっはっはっは~。おもろいやろ」
この車両は弱冷車なのになぜか寒すぎる…。
鎌倉高校前駅 平成26年8月 2014/8/14(木) 午後 2:55
女子がフェラガモとかオーストリッチとかブランドに弱いように、私も藤沢、湘南、江ノ電、鎌倉高校前といったアイテムにメロメロっす… ― 場所:鎌倉高校前駅
鎌倉 平成26年8月 2014/8/14(木) 午後 3:02
私は蕎麦好きなのだが、天ざるはほとんど食べたことがない。高いから…。(このお店の天ざるも高かったのですが、注文した価値は充分ありました。)田村師範のFBで見た鎌倉の「梵蔵」、これは行かねばと思った。こちらは総勢9人、お店の前で何人かが待っていたが、最後の客として売り切れになる前になんとか入ることができた。思いきって天ざるを注文。蕎麦が重くなく、喉越しがいい。そば湯は今まで飲んだことがないほどの濃厚さ。天ぷらはもちろん絶品。普段あまり食べない三歳の娘もしらす蕎麦をほとんど一人前完食。名産のシラス美味しかったです全員が絶賛。田村師範、ありがとうございました。押忍。
鎌倉は二度目だけど、初めて行った鶴岡八幡宮の蓮が見事でした。
鎌倉は二度目だけど、初めて行った鶴岡八幡宮の蓮が見事でした。
座間市のひまわり畑 平成26年8月 2014/8/14(木) 午後 3:07
座間市のひまわり畑。息を飲むほどの圧巻でした。
コストコ 平成26年8月 2014/8/14(木) 午後 8:07
コストコなう。とにかく広い。これで二分の一シートって、アメリカ人は…。
靖国神社 平成26年8月 2014/8/17(日) 午後 6:07
2014年8月15日
雨だった前日とうってかわり、晴天猛暑。靖国を訪れるのは実に四半世紀ぶりだ。この日に来られたのは何か意味があるのだろう。九段下駅から靖国神社へ向かう途中、こみ上げるものがあった。「靖国で会おう」と戦友に誓った兵士、水の一滴も口にできずマラリアで死んでいった兵士。妻子をおいて戦場に赴かなければならなかった兵士。その残された家族。大空襲で、原爆で苦しみぬいて死んだ非戦闘員。歩道は騒然としていた。ウイグル支援の募金を求める者、中共の法輪功迫害を非難するビラを配る者、河野談話撤廃の署名活動、南京大虐殺、従軍慰安婦は捏造だの幟。待機する各社の報道陣。
境内の中ほどには大村益次郎の全身像がわれわれを見下ろすように立っている。彼は軍制を洋式に改革するよう建議し、不平士族に殺された。近視眼的な頑迷固陋な攘夷を唱える人たちに。われわれも自戒しなければならない。そしてまた本殿の傍には東京裁判で唯一日本無罪論を主張したパール博士の顕彰碑がある。正午に武道館で開かれている戦没者追悼式の参列者と共に黙祷。
「時が、その熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう」
パール博士
帰りは早稲田通りをダラダラと下って神楽坂の中華「五十番 本店」で弁当を買って、向かいの神社の境内で食べました。
残念ながら遊就館もいっぱいで入れませんでしたが、若いカップル、夫婦、家族連れと多種多様な人々が参拝に来ているのを目にしただけで自分としては充分でした。
#84 カンボジア再び その2(リターンズ) 2014/8/24(日) 午後 9:33
NO84 カンボジア再び その2
at 2005 10/24 23:05 編集
彼らに礼を言って別れたあと、近くの広場に蝟集している屋台へ出かけた。昼間その屋台の一つで食事をした。母娘でやっているらしい。清潔とはいい難いが、ハエを追い払いながら食べたその小松菜と豚肉の炒め物に大根のスープはしみじみとうまかった。
「チュガン」(おいしい)と言うと、母親がにこっと笑う。外国人は珍しいのだろう、しきりに水を持ってきてくれたり、懸命にハエをうちわで追ってくれたり、おかわりはいらないかと何度も訊いてきた。その屋台に行ってみると、その時の娘が昼間とは見間違うほど化粧をし、着飾っている。勧められるままにフルーツと生ジュースを飲み、片言のクメール語で話した。近くの屋台からも人が集まってきて話がはずんだ。が、それがいけなかった。話題も尽きてしまったので、切りのいい時間に腰を上げる。何十メートルか歩くと、もう辺りは漆黒の闇だ。光の無い闇がこんなにも恐ろしいものだとは久しく思ってもみなかった。後ろを振り返ると屋台の一角が亡霊のように闇の中に浮かび上がっていた。僕は逃げるようにゲストハウスに帰った。
未明に腹痛が来た。痛みは間欠的に激しさを増してくる。そのまま、まんじりともしないで耐え、夜が明けるのを待ってゲストハウスを引き払う。地元民と白人バックパッカーでひしめくスピード・ボートに乗り込み、五時間半かけてプノンペンに戻った。船着き場からバイクタクシーでこのシアヌーク通りにある「レックス・イン」にチェックインした。部屋に入るとベッドに倒れ込む。こんなひどい下痢はインド以来だ。
「なんでこんな国に来てしまったんだろう」
天井を見つめながら自問してみる。すると突然、記憶の彼方に押しやっていたジョン・ダンの詩が天啓のように脳裏をかすめ、それは次第に実体となって現われた。
「奇なる眼を持ち生まれしならば
視えざる物も見にいくべし
一万の昼と夜を越え
時が君を白髪に変えるまで」
ベッドの上で苦笑する。僕は視えざる物を見ることを欲して、こうしてここまでやって来たのではなかったのか。体は重い。食欲は無い。近くにあるスーパー、「TOKYO INTERNATIONAL」でパンとジュースとミネラルウォーターを買ってはいたが、固形物はのどを通らない。それでも気力を振り絞り、ベッドから起き上がった。限られたわずかな滞在時間である。カンボジアまで来て一日中寝ているわけにはいかない。ふらつく足でホテルを出ると、通りは血液が沸騰しそうなほど暑かった。独立記念塔からノロドム通りを三キロほど北上するとワット・プノンという寺に突き当たる。この寺は十四世紀末にペン夫人が建立し、それがプノンペンという名前の由来となった。手前の道を右折すると、トレンサップ川沿いに中央郵便局がある。ここで日本の友人に手紙を出すために切手を買う。隣の窓口では葉書の束を持った中年の日本人女性が、まさに必死という感じのクメール語で職員としきりに何かを交渉している。ちらっと盗み見ると、日本語で書かれた年賀状だった。声を掛けようと思ったが、言葉を飲み込んだ。彼女がどのくらいの年月をプノンペンで過ごしているかはもちろん知らないが、僕には彼女が何かと闘っているように思えたからだ。僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。(続く)
「OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら
管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
いきなりですが、日本で食べる食事と海外で食べる食事はやはり衛生環境が全く違ってくるようです。いわゆる先進国での食事はまだしも、そうでない国での食事は良くない結果が待ち構えてるそうです。胃薬が本当に必要なようです。実は、ドリアン長野以外のある日本人男性が商用で台湾に赴いた時にお腹の具合が悪くなったそうです。
又、日本国内でも一部の町だけにおいて街灯が多いにしても夜間は基本的には闇という概念を持って行動しないといけません。LED懐中電灯が平成20年代になって市販されるようになりましたから今後はそれを保有して歩行されるのも悪くないと思います。無論、平成10年代でも旧来型の懐中電灯は、市販されていた。
以上、管理人マーキュリーマークでした。
#85 カンボジア再び その3(リターンズ) 2014/8/25(月) 午前 0:12
NO85 カンボジア再び その3
at 2005 11/02 23:09 編集
プノンペン滞在の最後の日。午後にはバンコク行きの便に乗らなければならない。もうこの国には再び来ることはないかもしれない。そう思った僕はこの街に最後の別れをしようと、「キャピトルゲストハウス」へと足を向けた。市内を南北に貫くメインストリート、モニボン通りは多くのホテル、旅行会社、レストラン等が立ち並び、ひっきりなしに流れる車とバイクの喧噪にあふれている。文化芸術省を右手に見て左折すると、バックパッカー御用達の「キャピトル」がある。シャワーとトイレ共同で三ドルで泊まることができる。一階には吹き抜けの食堂があり、日本人や欧米人旅行者のたまり場となっている。
「ハロー、キリングフィールドに行ってみないか。往復五ドルでどうだ?」
バイクタクシーのにいちゃんが声をかけてくる。
「友人を待ってるんだ」
うっとうしくなった僕はそう言って彼を追い払い、外のテーブル席に腰をおろした。この周辺は日没になると強盗が多発し、治安が悪い。それにもかかわらず、ここには様々な人間が集まってくる。旅の情報を求め、たむろする者。それを目当てに客引きをするバイクタクシー。アジアを放浪したあげく、「キャピトル」の狭く汚い独房のような一室でずるずると何か月も沈没する者もいた。そういった連中は一様に目つきが悪かった。社会に適応できず、日本を飛び出しアジア的寛容さに安住し、各地を放浪する。旅が五、六年と続くと(実際には十年以上旅を続けている者もいる)、それはもはや旅とは言えなくなる。非日常が日常となり、感覚が麻痺し、ついには摩滅してしまう。そうなれば日本に帰ろうと思っても帰れなくなる。いや、帰りたいといった気持ちさえ起こらなくなるといった方が正しい。別に帰らなくても本人の意志であれば他人が口を挟むことではないし、それはそれで僕なんかは尊敬の念さえ起きるのだが、この「キャピトル」にたむるする連中は重い沈殿物の如く怠惰で人生の貴重な時間を無為に食いつぶしているように思えた。(続く)
管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
人によっては日本に生まれても日本社会に適合が行えなくて海外移住を決断した人々がおられます。中には長期滞在を選んだ人々も多くおられるようです。一年の内、300日以上を海外で過ごし日本でないと行えない用事を済ませる時だけ帰国する人もおられるそうです。
物価が高い日本よりも海外で生活して楽しい人生を過ごされてるようですが一方でドリアン長野が指摘したように単なる怠慢な人もおられるそうです。
以上、管理人マーキュリーマークでした。
さらばベルリンの陽 平成26年8月 2014/8/27(水) 午後 9:43
当時シングル盤「Holidays in the sun」のB面だった。サンボマスターの「絶望と欲望と男の子と女の子」という曲を聴くと、この曲を思い出す。
「Holidays in the sun」の邦訳が「さらばベルリンの陽」だったが、太陽の下で過ごすバカンスなんか行きたくない。休日に(アンネフランクが亡くなった)ベルゲン=ベルゼン強制収容所に行ってきた、という歌詞なのでこの邦題にはかなり違和感を覚えた。
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