2019年7月5日金曜日

平成29年5月のyahooブログ上の投稿

皇居ラン 平成29年5月  2017/5/4(木) 午後 9:04
5時に起床。
六本木は早朝だというのに泥酔した女性や黒服やアジア系の人たちでいっぱいです。
昨夜は渋谷の交差点で日本人女性にひざまづいてペディキュアをしている白人男性がいました。あれは何だったんでしょう。
写真は六本木の老舗の蕎麦屋「黒澤」。
(管理人 マーキュリーマークからの伝言 写真は順序不同です)








東京都 平成29年5月  2017/5/4(木) 午後 9:51


(上)中古でこの値段か〜〜
https://www.facebook.com/durian.nagano/posts/1332319370188962?pnref=story
(下)広尾のおせんべい屋さん。昭和のかほり。


青山霊園をランニング 平成29年5月  2017/5/6(土) 午前 9:33
青山霊園をランニング。
広い。
偶然見つけた。








NO 104 カラテ イン ネパール編(ネパール編 加筆訂正)

at 2006 04/07 22:18 編集

カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。
オーストラリアから来たという少女が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。
それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」 と彼女を取り囲む。
困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。
ああくわばら、くわばら、桑原和○。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。
なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。
そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。
こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。
なにを隠そう、私は極真空手家オタクだ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ(嘘ぴょ~ん)。
ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き。天国の大山総裁、
ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。
そうしている内に六十歳くらいの油すましみたいなお爺がいつの間にか出て来て、のたもうた。
「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
はあ~っ? 何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい、ワレ。こうなったら戦争じゃけん。止めんでつかあさい、オジキ!  
と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、
このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! ワシは筋の通らんことは嫌いじゃ。タマ取ったりますけん、止めんでつかあさい、
オジキ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。
何でやぁ~~っっ?!
しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。 
「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」

そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、
まずホテルを確保しとかんとな。
ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだったが)。
バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。
奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。
私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて、うんうんと時おり会話に加わる。
そうこうしていると、 じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」 と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣)騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(もっと早く気いつかんか~い)
無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。 
「またあとでね」 と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。
てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。この男はとてもとても人相が悪い。凶悪といっても過言ではない。
逃げ出したほうがよいのではないだろうかとビビりながらついていくと、
五、六人の男女がたむろしている場所へ連れてこられた。なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。すると中の一人が言った。 
「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 
なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~、思わずヒザがかっくんとなっちゃったじゃないの。でも良かったわ、
会えて。みんなに連れられてすぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。
先生は八畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁という壁の至る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。
私(ドリアン)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
一週間後に試合があるからビザを四日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。出勤日から四日間無断欠勤したら即刻、馘首じゃないか。
家賃はどうやって払うんだ。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
七時の予定が結局八時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。八人が幌付きのトラックの荷台に押し込められた。
みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じだ。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で祭りには神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうである。
ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で女性たちが料理してカレーを作る。
トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットとスピーカーでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。
ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。
そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オ~~スッ!

#45 カトマンズの夜 (リターンズ)
2013-03-01 | Weblog
NO45 カトマンズの夜

at 2004 04/27 23:23 編集

中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。著者はインドネシアを旅していたのだが、「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」
僕は、ああ、分かるなあと思った。僕もカトマンズのタメル地区にある古本屋の二階で日本語と英語のペーパーバックを眺めていたら、ラジオからビョークが聞こえてきたことがある。曲名は思い出せないが、ネパールでビョークという取り合わせも妙なもので、年の暮れということも相俟って、異国で独りという寂寥感が身に染みた。
カトマンズに行こうと思い立ったのは、タメルという場所がバンコクのカオサンと同じように世界中のバックパッカーで賑わっていることを本で読んだからだ。ネパール人と異国のバックパッカーが交錯しながら食事をしたり、土産物を売ったり買ったりしている光景を思い描くと居ても立ってもいられなくなった。
夕刻にネパール空港に到着。ロッジのようなイミグレーションを通過し、外に出てタクシーを拾う。数十分走ったが、王宮の前で突然、エンストした。運転手に聞くと、何とガス欠らしい。彼は車外に出て、通りを見つめている。どうするのかと思って見ていると、やがて通りがかったタクシー仲間を捕まえてガソリンを分けてもらっていた。タメルに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、なるほど土産物やホテルや食堂が櫛比し、賑わっている。適当な安宿にバックパックを下ろし、街に出てみた。タメルはカトマンズにおいても異質な場所だと思う。ニューヨークがアメリカにとって特異な都市であると同じ意味で。外国人と牛と地元の人間で賑わっている往来をぶらぶらと歩いていると、小さなスーパーマーケットがあった。そこが気に入って、タメル滞在中は日課のように通った。外国人に混じって食料品を買っていると、不思議と心が安らいだ。多分、一人であっても一人じゃない距離感が好きだったからだろう。食堂では、よくモモ(水牛肉の餃子)とチョウメン(焼きそば)を食べた。席に着いてから最初のお茶が出てくるまで20分、最後の食事が出るまで一時間かかった。白人の客が「ネパールタイムだ」と言うと、他の客はあきらめのような、連帯感のような笑いを洩らした。
ひょんなことから、あるネパール人夫婦と意気投合し、彼らの知り合いの家へ招待されることになった。その家は日本大使館のすぐ側にあり、門扉から玄関まで歩いていくような、ネパールの生活水準からすれば充分すぎるほどの大豪邸だった。主人のチャンさんは台湾出身で、台湾の電化製品をネパールに輸入して成功した人だ。熱心な仏教徒でもあり、広い居間の一角にしつらえた祭壇へのお祈りは毎日かかさない。チャンさんは言う。「あなたが今日ここに来たのは、あなたが生前ネパール人だったからだ。今度ネパールに来た時はホテルに泊まらず、うちに泊まりなさい。いっそのこと、ネパール女性を紹介するから結婚してこっちに住んだらどうですか」。帰りは夫婦にタクシーでホテルの近くまで送ってもらった。食堂に入り、3人でチョウメンを食べた。縁って不思議だね。そう言って3人で笑った。ネパールに来てから三日目だった。
知り合いから知り合いに紹介され、滞在中は数珠つなぎに知人が増えていった。誰もが親切にしてくれた。ネパール人は日本人に似ているところがある。控えめで内気で、外国人に対しては親切にせざるをえない。それに加えて男たちは眉間のあたりに矜持といったものを漂わせていた。彼らの信仰する神のせいなのか、それとも貧しさによって自らを恃みにしなくてはならないからだろうか。勇猛果敢なネパール人はグルカ兵としてイギリスの傭兵になったこともある。僕は日本のサムライと彼らを重ねあわせることもしばしばだった。                 
たとえば、こういうことがあった。ジョッチェンの広場で少年たちにババ抜きを教えて遊んでいた。しばらくトランプをしていると、後ろから肩を叩かれ、知り合いの大人たちから「メシを食べに行こう」と誘われる。「すぐ戻ってくるから」と中座し、彼らとしゃべっているうちにトランプのことは忘れてしまっていた。あくる日、その広場に行くと、昨日の少年が近づいてきて、「忘れ物だよ」とトランプを差し出した。些細なことだが、アジアで未だこのような正直さに出会ったことはなかった。
帰国日、最後に広場に行ってみた。顔見知りの少年を見つけ、これから帰るからと告げる。何かを言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばない。「ダンニャワード(さようなら)」と言って歩き出したが、写真を撮っておこうと思いついた。ついでに周りの連中も記念に写しておこう。「写真を撮るよー!」とあたりに声を掛けると、20人くらいが集まった。笑顔の彼らをファインダー越しに覗いていると涙が出そうになった。
タクシーを拾い、空港に向かう。しばらくすると今度はパンクした。車外に出ると、来た時と同じような満月だった。


 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
  紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。
 平成10年代にドリアン長野が良い意味での懐古からかネパールのお話を再掲載してました。再編集版なのでネパール旅行記を一元化しました。平成10年代にドリアン長野が頻繁にgoo簡単ホームページで投稿してた事もあって、ドリアン長野は第13話を第104話目に再編集して再発表してました。画像データは得られない状態ですのでドリアン長野がネパール国内で撮影した画像の発表は行えませんが、代替として私が調理したチキンカレーのパスタを紹介します
 ネパールとチベットは隣接してますので同じような料理を楽しむことが行えるようです。チベット料理とネパール料理は似通ってるようです。チキンチョウメンとも言われるチキンカレーの麺料理は日本国内でも幾つものネパール料理店で販売されてますから有名です。おいしいので自作されてもよろしいかもしれませんね。個人的な感想なんですがネパール料理店はバターを多用したカレーにも思えます。店にもよるし食べた人によって感想は違ってくるでしょうが少々重たいカレーでした。植物性油を多様するのはパキスタンでしたね。バランスが取れているのはインドでした。スリランカのカレーは意外と甘めだったと思います。カレーの特徴に限っては個人的な感想なので賛同は得られにくいとは思います。日本のカレーは化学調味料が多いかも?テレビで日本のカレーがおいしいと外国人が発言していても、それが本当かどうかは最近は少し疑うようになってきました。
 ドリアン長野は、本当に空手家です。ネパールでも価値観を分かち合ってきたそうです。何かの共通点があると人は仲良くなりやすいですね。諸外国に赴き同じ志を持つ人々に出会うと嬉しい気持ちになると思います。確かに色々と生活習慣等で違う点は多いが共通点が存在すると話しが合うんでしょうね。皆様は、どうですか?
 ネパールと言えば、政変がありました。平成10年代は、王政でしたが平成20年からはそうではなくなりました。 我々は、内政干渉は行えないであろう。実際にネパールに詳しい日本人に話を聞きましたが、そういった返答でした。ネパール人の中でも政治については人の数だけ意見が分かれるようです。一応は海外の政治動向については内政不干渉が正しいです。一方で国内政治について考える有権者は多いです。周知のように平成20年(2008年)にネパールは王政が廃止されました。過去と現在ではネパールは大きく違うと考えた方がよろしいかもしれません。実は、2010年以前にこの点についてネパールに詳しい人物と話したのですが、「日本人が決めることではなくて彼等が決める事。」だと返答されたのが印象深かったです。実際の所、内政干渉は行えません。強調しておきますが、平成10年代は王政であったネパールは現在は連邦民主共和制になってます。中国寄りの政府が出来たこともあってインドとの緊張は不可避なのでしょうか? ネパールはこのままだと内乱が発生しかねません。その点でもこの海外旅行記は貴重かもしれませんね。有名なお話ですが、ネパールは民間軍事会社が多数存在してることで有名です。ネパール国内では真面目に生活し海外では傭兵になる人も多いようです。 
 これは、実体験のお話しだが確か90年代のある日だったと思うが宅配ピザを発注した所、ご近所のお子様達がピザを一枚くれと叫び始めたのを連想する。初めに「ピザを一枚くれ。」と理不尽な要求を叫んだ女の子がいてその女の子の名前が〇なちゃんだったから「(OSで有名な)リ〇ックス。」と発言した後、ショックだったようです。悪さをする子供には氏名を冷やかす位のシツケが必要です。(笑)又、彼女と一緒に遊んでいた女の子が、平成10年代に大きくなってセーラー服を着用して彼女と彼女の友人達が我が家の近所にいた時にその女の子はアジア系外国人なのでその国の言葉で挨拶をしようとしたら、彼女は泣きそうな声で「辞めて。」と言われて今でも笑わずにはいられません。テポド〇の影響を友人達に知られるのが怖かったのかな?彼女が幼い時は水鉄砲で迷惑をかける子供であった。親御さんは良いが子供さんには問題があった。近所の子供が悪さをした時には大人はピシャと雷を落とす必要がありますね。私は平成20年代になって冷蔵ピザが一般的になって宅配ピザを注文する機会はほとんどございません。2000年以降の平成10年代のある日以降、日本の治安が悪化しているからか私を理解したからか彼等が大人になったからなのかは全く分からないが、馬鹿げた質問をされることは無くなったから良かった。 最近の日本人は、罪悪感が欠落した悪人が増加してきて社会問題になっているが元々は馬鹿げた発言をする人間に問題がある。
 本当に海外ではノンビリしてるけども心の暖かさが残っているようにも思えます。昨今の日本の現状は全てでは無いにしても大企業が大赤字であったり非常識で短気で錯乱してる犯罪者が横行する社会になってきています。心が冷え切った狡猾な人物が多くなってきているのが当たり前になった社会です。言い換えると、精○異○者が優遇されているのでしょうか?
 台湾人夫婦が日本人に優しく接してくれた点も感謝せずにはいられません。実際の所、ドリアン長野は日本人女性と結婚して娘さんがいます。
 過去にフザケタ内容であるがゆえに突っ込み所満載の情けない海外旅行記と違って今回は心が温まる海外旅行記にも思えて仕方がありません。違った意味でずるく感じますね。
 但し、海外に行くと日本とは環境が違ってくる点は理解しておきましょう。タクシーひとつとっても安心は行えないようです。問題が発生して遅延が発生する事が日本よりも高い確率のようです。私がカナダに行った時は、タクシーは利用しなかったがホテルから空港の送迎バスが事実上のタクシーだったと考えてます。私は迎えのバス約束の時間には間に合ったし運転手のパスポートの確認についても黙ってパスポートの顔写真を見せて納得してもらったが、バンクーバー国際空港が込み合っていた影響で飛行機の座席に着席したのが出発の40分前だったのは微妙で自発的に早めに空港に行っておいても悪くなかったかな?
 公共交通機関が発達してる町に行って、その街の一日乗車券を買って利用出来たら良いが、日本の場合は各交通関連の会社毎の思惑があってかそういった提案の特殊乗車券の販売は少ないように感じられます。ある町では、外国人向けに特別な一日乗車券を販売してるようですけどもね。
 そういえば、どこに行きたいか?についてですが、今(平成20年代)となってはタブレットやスマホで円滑に情報が得られる時代になりました。帰り道についても調べておくことを推奨します。理由は迷子になる可能性があるからです。


 ドリアン長野が執筆した海外旅行記は順番が非常に乱雑で順不同の状態に至ってます。ドリアン長野自身が平成10年代に発表した旅行記を後(平成10年代末期)に再編集して再発表した前例が今回のネパール旅行記です。
第13話で初めてネパール旅行記が語られました。後に前述した第45話ばかりか、第13話を加筆訂正し再編集した第104話でもネパール旅行記が語られたので前作と次作はそれぞれ異なっております。そういう訳で意図的に順番を前後させてます。

 皆様、次回のドリアン長野の海外旅行記をよろしくお願いします。

靱公園バラ祭 平成29年五月  2017/5/13(土) 午後 9:55








管理人マーキュリーマークからの皆様への伝言。
スライドストーリーに不具合が発生したのでスライドストーリーによる動画の作成は今回は見送らせてもらいます。






#14 カオサンの大晦日 (リターンズ2.0)  2017/5/14(日) 午後 11:07

カオサン通りでのニューイヤーズ・イブは一体どうなっておるのだ、という素朴な疑問を抱いた私はその実態を解明すべく、2001年12月30日と31日にカオサンに宿をとった。泊まったのは通りの中ほどにある「カオサン・パレス・ホテル」だ。あるガイドブックにも書いてあるようにサービスは良くない、っていうかレセプションの人間はやる気が全くないぞ。思わずここは中国の旅社かと思っちゃったぜい。ツインしかなく、おまけにエアコンは壊れていて530バーツもした。唯一の取り柄はNHK放送が受信できるってことぐらいだろう。   
その日はバンラ-プ市場とパトゥ-ナムをうろついた。タイ人にとって正月はタイ暦の4月だし、中国系タイ人にとっても正月は2月ぐらいだから街は普段と変わらない。しかし、だ。7時頃に行ってみるとマーブンクロンの前には特設ステージが出来て、歌謡ショーとファッション・ショーのようなものをやってるし、ワールド・トレード・センター前のラチャーダムリ通りはホコ天になっていてすごい人だかりだ。こりゃあ、何かあると踏んだ私は鼻息も荒くカオサンに戻ったね。お祭り好きの私はじっとなんかしてらんねえよ、江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ。今日は特別な日だからってんで、奮発してコンビニでケーキを買って(といっても28バーツだよ、べらんめえ)、ホテルに帰ったと思いねえ。シャワーを浴びて、WTCで買ったヤイコのテープを聴いてじっと待ったさ。格闘家が試合前に音楽を聴いて精神を昂揚させるのと同じだな。そういえば日本でも大阪城ホールでヤイコのカウントダウン・コンサートが始まってる頃だ。とにかく気力、体力ともに充分だっ! 11時になると私は鼻の穴を通常より3センチばかり拡げて、フガフガとホテルを出た。
最近のカオサンは渋谷化状態していて、タマ大の学生や地元のバンコクっ子が大挙して遊びに来てるよーだ。これもデカプリオ主演の「ザ・ビーチ」のおかげか? とにかく尋常じゃない人だかりだ。私は表通りや裏通りをうろうろしてカウント・ダウンを待った。私の泊まっているホテルの前にはオープン・レストランがあって、テーブルが道路の半分を占領している。必然的にそこが一番、混雑率が高くなるってわけだ。地元の人間やら旅行者やらがくんずほぐれつ、盛り上がっている。
こら~っ、ビールをかけるんじゃないっ! わしは野村監督かいっ!(野球が嫌いなので去年はどこが優勝したのかも知りません)耳のそばでラッパをプープー鳴らすなっ! 人ゴミの中で踊るな~! 喧噪の中でもみくちゃにされるうちに何が何だかわからなくなってきた。ふんがぁ~。私はタイムズ・スクエアやトラファルガー・スクエアでも年越しをしたことがあるが、てめえらみたいな脳天気なやつらは初めてだっ! 白人どもっ、たかが新年になるだけなのに何でそんなに興奮するのだあ! そのうちレストランから流れてくる「オアシス」に合わせて白人どもが大合唱を始めた。薄れてゆく意識の中で私は思った。2000年に欧米人が連帯できる音楽って、やっぱりオアシスなのね。らぶあんどぴいす.....。「VSゲストハウス」の連中はこの時間、やっぱり新年を祝って一発キメてるんだろうか.....。ヤイコのコンサートのアンコールは何だったんだろう.....。「グレース・ホテル」のアラブ人たちは盛り上がってんだろうか? あっ、イスラム教は陰暦かぁ.....。いろいろと世話になったな、タイ人。お前たちのこと好きだけどな、最後に言わせてくれ、「マイ・サイ・パクチ~.......」(注) 
しっかりしろ、おれっ! 目を覚ませっ! これじゃあいかんと思い、ホテルに帰ろうとしたが、ベルリンの壁より分厚い人壁に阻まれ、目と鼻の先にあるのに帰るに帰れんじゃないかっ! みなさ~ん、よいこは早くおうちに帰って寝ましょう~って、結局やつらは4時まで騒いでたぞっ、バカヤロ~!!(爆死) 

注 「パクチー(コリアンダー)を入れないでね」 

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 平成10年代の海外旅行記です。 平成20年代のプロ野球界の野村監督と言えば、本当に二名以上いますね。 イーグルスか、カープかについては、ご想像にお任せいたします。 そういえば、野村克也監督は鳥のチームを率いていた時には、強かった。野村克也元監督は、1973年に南海ホークスをリーグ優勝に導いたばかりか90年代にヤクルトスワローズを3回日本一に導いた。
2010年代にNPBの現場の監督としては復帰はしない見込みです。
カープ出身の、後者(野村謙二郎氏)はこれからどうなるのであろうか?平成26年というか2014年にクライマックスシリーズに出場を果たしたのは立派でした。2015年(平成27年)にボストンレッドソックスの臨時コーチに就任されたのは周知の通りです。野村謙二郎氏の今後については各自でお調べください。
今回の海外旅行記で伝えられている去年とは、2000年(平成12年)であれば、いわゆるON対決(ホークスの王監督とジャイアンツの長嶋監督)でした。2001年はスワローズ対今は無き大阪近鉄バファローズの対決でした。
大阪近鉄バファローズが、最後に4回目のリーグ優勝を果たしたのは、2001年でした。
タイランドへ遊びに行ったが結果的に、人ごみで苦しんだお話しのようです。本人自身があらかじめ覚悟をしていたがやはり、苦しんだといった内容です。
人によっては、こういったお話しを確認されてから、どこに行くかを考慮されるかもしれませんね。 
中途半端な宿よりも、暑いタイランドであっても安心して過ごせるようなホテルの選択が必要なんでしょうね。 
やはり、注目すべきは外国によっては習慣が違う人々を尊重し休む時期が異なっている場合があるようですね。 日本の場合は、基本的には一種類ですからね。 こういった点を考慮して海外旅行をしないといけないかもしれません。ただ、海外の午前4時って日本時間だと日中になる可能性もあるのかな?
私が平成27年に行ってきたバンクーバーのサマータイムの午前4時は午後8時です。冬時間は午後9時です。
一応、タイランドと日本の時差が二時間で日本の午前2時がタイランドの午前12時だそうです。日本時間の午前6時迄暴れてた人がタイランドにはいたのかな?
大晦日以外に大晦日の話というのに抵抗があるかもしれませんが、ある意味、再放送のようなものですのでご了承ください。 昨今、再放送は多いですね。今後も似たような状況は継続します。
 実際に海外に行く前に海外旅行記を読んでおいて良かったと思うのは、余りにも激烈なお祭りに参加するよりものんびりした旅行で十分と考える事かもしれません。
実際の所、のんびりした旅行にしようとしても試練があったりするのが、海外旅行です。
ドリアン長野は本当に何度もタイランド旅行していてタイランドが好きなようです。
ドリアン長野はバンコクが好きで、私はバンクーバーが好きといった具合です。
 カオサンとはタイランドでは白米を意味示すそうです。過去には米問屋が多かったが、最近はタイ人にしたら外国人向けの宿泊所が多い町から転じて繁華街になってるそうです。

次回のドリアン長野の海外旅行記にご期待ください。


 紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

ロンドン・コーリング (ロンドン旅行記)  2017/5/20(土) 午後 3:08




紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。











#42 and #43 ロンドン・コーリング(リターンズ)
2013-01-01 | Weblog
NO42 ロンドン・コーリング

at 2004 03/19 22:25 編集

ある日、何気にNHKを観ていたら、普段はめったにNHKなんか観ないんですけどね。ロンドンのイースト・エンドの話をしてたんですよ。イースト・エンドは労働者の街でね、反対にウエスト・エンドは高級ブティックやレストランがある、おされな街なんですよね。ほら、ペット・ショップ・ボーイズの「ウエスト・エンド・ガールズ」って曲あったじゃないですか。あれはイースト・エンドに住む労働者階級の少年とウエスト・エンドの中産階級の少女の歌なんです。この時、あっ、イースト・エンドに行ってみたいって思ったんです。その時までヨーロッパには行ったことがなかったし、興味もなかったんですけど。それにロンドンといえば、僕にとってはパンクなんですよね。その時は1994年でした。ヒップ・ホップ、グランジ、ユーロ・ロックの時代です。カート・コヴァーンが自殺したのもその年だし。パンクなんてもう過去の遺物ですよ。でも、アメリカのパンクと言われるグランジの代表的バンドのリーダーがその年に亡くなったっていうのは、何だか象徴的ですね。ニューヨークで発祥したパンクがロンドンに渡って、十何年か後にその種子がシアトルでやっと発芽して全世界に広がったけど、一つの遺伝子が絶えた、みたいな。それでも、パンクスの一人や二人はヤンバルクイナやカブトガニみたいにひっそりと生息しているだろうと。天然記念物みたいに英国王室が保護してたりとか、そんなわけないか。それで、イースト・エンドとパンクスという学術的にも崇高な、ちょっと、ここは笑うとこじゃないですよ。まあ、淡い期待を抱いてですね、ロンドンに行ったわけです。
 ロンドンってとこは、もう京都ですね。ヨーロッパ中から来た観光客がわんさかと歩いてて。僕もフランスなまりの英語でよく道を聞かれました。ヴィクトリア駅なんかに行くと、若者だけじゃなく、中高年の一人旅や夫婦パッカーがうろうろしていました。日本のリーマンのみなさんもね、パチンコを控えたり、「村さ来」に行くのを三回から一回に減らしたりしてね、こつこつと小金を貯めて旅に出たらいいんじゃないかと思いましたね。見聞も広がって、人生楽しくなるんじゃないかと。まあ、よけいなお世話ですね。それに街中の空気がね、すごく穏やかなんですよ。大都市にありがちなギスギスした感じがない。人も穏やかな顔をしてるし。道を尋ねても誰もが親切に教えてくれるんです。おじいさんやおばあさんなんかね、僕の腕をつかんで離さんばかりに教えてくれる。だけど、ハイド・パークを歩きながら思ったんです。ロンドンには住めないなあって。僕の眼には物凄く退屈な街に映ったんです。実際に住んでみたら違うんでしょうけど。
肝心のイースト・エンドですけど、オールドゲイト駅付近にあるとは知ってましたから、そこで降りて人に聞いたんですが、誰も知らないって言うんですよ。仕方なくうろうろと探していたら道に迷っちゃって。そのうち、まっ、いいかって気持ちになっちゃって。もう一つの目的のパンクス探訪ですけど、やっぱりいないんですね。キングズ・ロード、オックスフォード・ストリート、カーナビー・ストリート、ピカデリー・サーカス、スローン・ストリート、カムデン・ロック・マーケットと歩き回ったんですが、見つかりませんでした。それじゃあ、どうしようかなと思ってね、大英博物館を観て帰るのも何だかなあ~でしょ? それでふっと思ったのが、そうだ、ブリクストンに行ってみよう! と。ジャマイカ移民とかのコミュニティーができてて、貧しい区域なんですよ。もちろん犯罪も多いし。クラッシュの「ブリクストンの銃」には、白人が作ったレゲエの中では最高傑作だと思うんですけど、自分たちのパンクのルーツであるレゲエに対して、もし、その敬愛するジャマイカ人たちが暴動を起こしたら、我々は制圧する側に立つのかという葛藤が歌われています。泊まっていたホテルの人からも、ブリクストンに行くならカメラはしまっておきなさい、充分気をつけるのよ、なんて言われたんで何だか期待してしまって。朝一番に地下鉄に乗って行ってみたんですよ。そしたら、アパート、あっちではフラットですか、そこから出勤する白人が出てきて。あれっ? 白人も住んでるの? って思ってね。こっちはニューヨークのサウス・ブロンクスみたいなところを想像してましたから。一体、何を期待してるんでしょうね? 僕は。(つづく)
NO43 続ロンドン・コーリング

at 2004 03/26 23:30 編集

とにかくブリクストンはそんなに荒廃しているとは思えなかった。少なくともアジアのいくつかの都市よりは遥かにマシです。一度だけ黒人に声を掛けられて。素振りを見ると、ああ、こいつは金をせびろうとしてるなと思ったんで無視しましたけど。そういえば、これはブリクストンじゃなくて普通の通りなんですが、歩いていると、物乞いしてるのは若者なんですね。働かなくても失業保険で何とか食べていけるので、無気力な若者が増えているような気がします。物乞いをして断られると、ある若者が「この街はどいつもこいつもファッカーばかりだぜ」と歌っていましたが、ファッカーはお前の方だ、と言いたくなりますね。
その夜はホテルが密集しているアールズ・コートのドミトリーに泊まりました。ここらあたりは何故かオーストラリア人が多いそうなんですが、僕はドミトリーに泊まるのは初めてだったんです。他人がいる空間ではくつろげないんで、今まで泊まったことはなかったんですよ。部屋に入ると、僕のベッドにヒッピーくずれみたいなカップルが寝ている。しかもニューエイジ・ミュージックをかけながら、抱き合ってるんです。一応、「ここ、僕のベッドだけど」と言うと、薄目を開けて、「ああ、そう」なんて言う。まあ、どこのベッドに寝ようが関係ないんですけど。だけど、延々とニューエイジを聴いてるんで、頭がおかしくなりそうで外に飛び出しました。その時、夜のソーホーに行ったんですけどね、キッチュというか、フェイクというか。ブライアン・イーノが化粧していた頃の初期のロキシー・ミュージックみたいな感じなんですよね。あるいは、ジョン・フォックスが在籍していた頃のウルトラ・ヴォックスみたいな、ファーストでメンバーがビニールのジャケット着てて、ネオンが煌めいてるイカしたアルバム・ジャケットがあるんですけど、そんな雰囲気なんですよね。映画でいえば、「ロッキー・ホラー・ショー」とか、フレディー・マーキュリーのもっこりタイツとかを連想しちゃうんですね。えっ?よく分からない? 歩いてみれば分かりますよ。ゲイリー・ニューマンの幻想アンドロイドですから。もっと古い例で言えば、パリスのビッグ・タウン2061ですかねえ。ますますわけ分からんですか。えっと、あと年末だったんで、トラファルガー・スクエアのカウントダウンにも行ったんですけどね、なんだかんだ言っても、イギリスはヨーロッパの中心だと思ったのはね、僕の分かる限りでも、スペイン人、ドイツ人、スウェーデン人、イタリア人、ポーランド人、フランス人、スイス人、あとインド人と中国人と日本人がいたことですね。ええ、4時間その広場をうろついてましたから。12時になったら、そばにいる女性にキスしてもいいことになってるんですけど、無理やり迫ってビンタ張られた男もいました。いい思い出です。いいえ! 僕じゃないですよ。違いますって! 失敬だな、君は! ともかくもですねえ、一番感心したのは、ロンドン郊外を歩いていて、信号のない車道を渡ろうとした時ですよ。車がビュンビュン通ってるんですけど、車道の一歩手前まで来たとたん、左右の車が一斉にピタッと停まりましたからねえ。大阪人、少しは見習って欲しいですねえ、正味の話。
だけど、パンクスに会いたいなんてのは今から考えると、まるで日本に来た外国人がサムライが見たいと言うのと同じ感覚ですね。ジミー・ペイジが来日公演で成田に降りたとたん、「サムライはどこだ?」って聞いたのを笑えません。次にロンドンに行く時は、羽織袴に雪駄を履いて行こうと思ってます

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項

 
 UK(イギリス)こと英国の首都、ロンドン旅行記です。今回は特別に前編、後編の両者を同時に発表します。英国の首都はロンドンで2012年(平成24年)に五輪が行われました。今となっては、偶数の年に五輪が開催されてます。皆さん、楽しまれましたか? 某テレビ局が特番を放映してたような?
 過去にはこうであったというお話はなぜか少し悲しみがありますね。
 平成20年代になって劇的であったのはUKポンドが大幅に下落したことです。ポンド高の時代は終りユーロの方が高値の時期がありました。ユーロ、円、英ポンド等の為替相場は変動相場制ですので詳細は各自でお調べください。
 今回の海外旅行記は随分以前のお話です。
 昨今、インターネットや海外旅行案内書等で海外情勢を知る機会が増えてきました。過去においては現状を知るのが難しい時代がありましたが最近では町の現状を知るのが簡単になってきました。従って、一旦情報を得てから海外旅行をする事が簡単になってきました。違った意味で期待はずれは無いが意外さがなくなったからよほどの秘境で無い限り開拓が難しくなりました。
 今となっては日本の侍は時代劇の撮影をしていない限りは滅多に見れません。
 死去した音楽家は多いが生前に残した記録は数多いから今でも生存しているように感じられる人々は多いに違いありません。
 たくさんの国から人がやってくる国際的な町、ロンドン。よき町のようです。
 全く逆に英国人は、英国を出国し私が行ってきたバンクーバー等にも移住してるようです。
 次回のドリアン長野の海外旅行記にもご期待下さい。 以上、管理人マーキュリーマークでした。

「憤せずんば啓せず。悱せずんば発せず」 平成29年五月  2017/5/21(日) 午後 7:59

孔子は言っている。
「憤せずんば啓せず。悱せずんば発せず」
意欲がこみ上げてくるようでなければ教えても仕方がない。答えが喉元まで出かかっているぐらいでなければ教えても仕方がない。
啓発という言葉の元となった自発性尊重教育だ。儒教における教育とはエリートを養成する君子教育である。すべての人間が教育を受ける権利を有するという民主主義的な平準化教育ではない。そして庶民教育を推し進めた結果が愚劣なゆとり教育を生み出した。
道場に通っていた頃、しばしば刺青を入れたヤ〇ザ(の下っ端)が入門してきた。喧嘩に強くなるためだろう。しかし好戦的な彼らが一か月と続いた試しはない。彼らにとって努力や忍耐は何よりも苦手なことである。それよりも心身に不安や劣等感を抱える人間のほうが厳しい稽古に耐える心性を持つ場合がはるかに多いだろう。武道は学校教育に導入し必修化することになった。私は武道の庶民教育には反対だ。
空手を教えていて思う。空手は君子教育でいい。自らを変えたいというこみ上げる意欲を持つ人間だけがやればいい。

バンコクの軍病院で爆発21人けが 現場に電池など(17/05/22) 
2017/5/23(火) 午前 9:14

ビートルズ・ソロ作品読解ガイド 秋山 直樹について 
2017/5/25(木) 午後 8:56 
ロックの歌詞の訳文は誤訳が多い。それ以前に、ネイティブが聴き取りをしているんだろうが、聴き取り間違いが多い。
この本に出てくる例として、ジョンレノンの「Mother」の節、
Mother,you had me,but I never had you.を今野雄二も山本安見も岩谷宏も抽象的で生硬な直訳調で訳していて、長い間釈然としなかったが、著者は「母さんは僕を産んでくれたけど、母親の役目を果たしてくれなかった」という風に訳すべきだと書いてあり、ハタと膝を叩いた(表現が古いなあ)。さすがである。目から鱗がボロボロ落ちる一冊。 

勢古浩爾 平成29年五月  2017/5/30(火) 午後 3:30 
勢古浩爾という評論家、エッセイストがいる。輸入洋書会社に勤務、並行して文筆活動を行い、定年まで勤め上げる。私は彼の潔い文体が好きだ。例えば
恋愛にいたっては、生涯ひとりの女性を愛し、愛されればそれで十分、合コンのような愚劣なことは絶対にするなと言い切る。
「世界の中で自分より立派な男がたくさんいるのに、自分を選んでくれた、それはもうすごいことではないか。こんな俺のどこがいいのか、と思わないのか」と。
思わず首肯。彼がエッセイの中で神田神保町の「キッチン南海」のカツカレーは日本一であると書いていたので食べに行ったことがある。確かに美味しかった。本好きには周知の事実であろう。
https://www.facebook.com/durian.nagano/posts/1357256121028620?pnref=story


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回顧を兼ねた書評 令和二年三月


僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


ランニングについての投稿




ランニング(特に早朝)をすると
眠気がふっ飛ぶ
血液が循環する
走っている時は悩みを忘れる
デトックスになる
街中の新しい発見
脳から快感物質が出る
一日爽快感が続く
大阪城公園〜坐摩(いかすり)神社の紫陽花