2019年7月6日土曜日

平成29年6月のyahooブログ上の投稿

内田百閒の「ノラや」 平成29年6月 2017/6/3(土) 午前 9:23
内田百閒の「ノラや」は愛猫のノラが家出をしてしまい、70歳にならんとする百閒先生が身も世もなく嘆き悲しむ随筆だ。
「ノラのことを思うと涙が止まらない」とこの明治生まれの頑固偏屈無愛想で我儘な文豪が毎晩はらはらと涙を流す。ノラと入れ替わりに居ついた野良猫も病死してしまう。私も愛猫家として読んでいて胸を突かれる。
なぜだか「ショーシャンクの空に」の主人公の言葉を思い出す。
Hope is a good thing, maybe the best of things. And no good thing ever dies.(希望ってのはいいものだ。多分この世でいちばんのものだよ。どんなに絶望の中にあったって良いものは決してなくならないんだ)
上を見ると青い空だ。今日も頑張ろう。


写真 平成29年6月 2017/6/4(日) 午前 8:10



上島竜兵は服のセンスが相当悪いらしい 平成29年6月  2017/6/5(月) 午後 8:52

上島竜兵は服のセンスが相当悪いらしい。『虹をつかむ男』にホームレスとしてワンシーンの出演をした際、細部まで拘る山田洋次監督の「今日用意された衣装の中に、竜ちゃんの役にしっくりくる衣装がない」という理由で翌日に撮影が延期された。帰ろうと私服に着替えて挨拶に向かった上島は山田監督に「それだ!!」と見初められ、結局私服でホームレス役として出演したというエピソードにジワジワ。


— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年6月5日 ">

与党に厳しい情勢、相次いだテロが影響 英総選挙(17/06/09)  2017/6/9(金) 午後 10:28

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000102755.html


フィリピン旅行記  2017/6/10(土) 午前 0:00 




紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。




#17 マニラのスラム (フィリピン旅行記 リターンズ)

夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。


「スラムは特別な地区にあるのではない。メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のいたるところにある。例えば、あなたがニノイ・アキノ国際空港を降りてタクシーに乗り、マカティの5ツ星ホテルに泊まり(そこまで気張らなくても安ホテルでも同じなのだが)、日中は車で移動して夜は繁華街で過ごすとなると、「タイやシンガポールほどではないが、フィリピンもずいぶんと経済発展しているんだなあ」と思うだろう。ところが、一歩、メインストリートをはずれて体重を右足でも左足でもいいから、どっちかに傾けて薄暗い路地を折れてみるがいい。
 そこには、ああっ、と驚く光景が広がっている。」 
 
 とそれから浜氏はスラムの様子を描写し、
「しかし、わたしにとってスラムは混沌という名の・楽園″であり、生命力溢れる根元的な場所である。
  (略) ある意味で、最も俗なるところが聖に通じ、最も醜いものが清らかなものに近く、最も単純なものが真実に迫るという逆説を痛感できる、哲学的な場所でもある。」
 
 と続けている。私はこの文章を読むたびに、うひゃひゃと体が弾むような感覚になるのだ。私はスラムが大好きだ。電車に乗っていて、線路沿いにあるスラムを見つけると途中の駅で降りてしまうくらいだ。そんなに好きなら一生スラムに住みついたらどうだ、と言われると困るけどな。
 マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。アバト・サントス駅でタクシーを止め、ドライバーに聞いてみる。 「あんたは悪人か、それとも善人か?」 (マニラのタクシー・ドライバーはボる奴が多いからな) 「なぜ、そんなことを聞く? もちろん俺はグッドマンだ」 交渉して、スモーキー・マウンテンをぐるっとひと回り、300ペソで行ってくれることになった。ドライバーのソシモは気のいい人で、運転中もずっとしゃべりっぱなしだ。 「人生で大切なのはお金よりも友だち、神様、家族だと俺は思うね」 「香港に研修で行ったことがあるよ。外国に行ったのはそれっきりだ」 「トンドなんかになぜ行きたいんだ? あんた、ジャーナリストか? トンドで警官がナイフで刺されたことがあるし、タクシーだって石を投げつけられたこともあるんだぜ」等と話を聞いているうちに、車はいつしか迷路のような細い路地に入り込んだ。一見してスラムと知れる、その住民たちが車を取り囲むようにしてじろじろとこちらをねめるように歩いている。ソシモの言葉を思い出して、こちらとしては気が気ではない。やがてマニラ湾沿いの道路に出た。う~ん、と思わず私は目を見張った。なにしろトタン屋根とありあわせの木造で建てられたバラックが何キロにも渡って延々と続いているのだ。それは今まで訪れたアジアのどの国でも見たことがなかった、圧倒的な光景だった。電気は引いているが、水道はないとソシモは言う。
 スモーキー・マウンテンには以前、人が住んでいたが現在は政府によって強制撤去させられて家はない。気が遠くなるほどの広大なただのゴミの山だ。少し行くと、今にも崩れ落ちそうな五階建てくらいのアパートが密集していたので、その前の広場に車を止めてもらう。広場にいる大勢の大人たちや子供たちが何事かとこちらを注視してきた。
 ソシモに「外に出ても大丈夫か?」と聞く。 「ああ、大丈夫だ」 「ここで待っていてくれ」 あたりを窺うようにしてゆっくりと車から出て、一番近くにあったアパートの階段をのぼる。そこで私は自分の目を疑ったね。各部屋のドアはなぜか全てなくて、中がまる見え。室内には所狭しと何人もの人間が住んでいるのだが、住んでいるのは人間だけではなかった。猫や犬に数羽の鶏までもが同居しているのだ。一軒家ならともかく、アパートの一室で人が家畜と暮らしている光景は異様だ。それは、まるで家畜小屋に住人が住まわさせてもらってますって感じなのだ。もしかして、あれはペットなのか? いや、そうではあるまい。スラムの住人にそんな余裕があるはずがない。現金収入を得るため、もしくは自給自足の食料として飼って、いや、同居しているのだろう。上の階まで行きたかったが、住人の眼光が鋭くなり危険を感じたので車まで戻る。
 「一緒にアパートの上まで行ってくれないか?」とソシモに頼むと、「駄目だ。危険だよ」と言う。あとから考えてみると、危険なのは我々だけでなく、もし車を残しておけばその車だってどうなっていたか分からない。仕方なくトンドを離れ、リーサル公園で降ろしてもらった。歩いて駅まで行こうとしたら、一人のフィリピーノに時間を聞かれた。そのままついてきて、歩きながら自己紹介を始めた。年は29歳。父は日本人、母はフィリピン人。何年か前に離婚し、父は香港にいるが母は行方不明。彼には子供が二人いて、ミルクを欲しがっていると何度も言う。ふ~ん、なるほどね。案の定、「セブン・イレブン」で粉ミルクの缶を二つ買わされた。自分のためにお金をくれ、というのならともかく、小さな子供がおなかを空かしているという言葉に断ることができなかった。願わくはだな、あとでその粉ミルクを換金して、お人好しの日本人はちょろいもんだと舌を出さんように願っているぞ。
 その男は粉ミルクを受け取り、ホテルの所在地を尋ねるとお礼のつもりなのか「案内するよ」と歩き出した。おい、ちょっと待ってくれい。わしはLRT(高架鉄道)に乗って帰るからいいんだ。と言ってもそいつは先頭に立ってどんどん歩いて行く。待てっちゅうねん、お願いだ~、頼むから待ってくれ~。ここからホテルのあるエドゥーサ駅まで6キロはあるぞ。 「心配しなくても大丈夫だよ」 いや、だからそういう問題じゃなくてえ。男は黙々と歩く。薄暗い夜道をひたすら歩く。月がきれいだった。一時間歩いてホテルに着く。えっ、本当に着いたのか? 初めは着いたのが信じられんほどだった。リキというその男は妻子のためにお金が欲しいと言う。 「いくら欲しいんだ?」 「200ペソ」 ありがとう、リキ。案内してくれてよっ!私は彼に50ペソ渡した。リキは少し不服そうだが礼を言って帰っていった。また一時間かけて。
 それから私はホテルでイタリア料理を食べた。500ペソほどだった。近くにカジノがあるというので行ってみたが、カラーのないシャツを着用している人は入場できません、と断られた。帰り道でぼろぼろの服を着た6歳くらいの女の子が右手を突き出してきた。小銭を1ペソしか持ってなかったのでそれを渡すと、女の子は無言で首を振った。でも、どうすることもできんのでそのまま帰った。私は人権主義者じゃないけど、つくづく人間は不平等だとその夜は思った。

管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項

 フィリピン旅行記のリターンズです。
 本当に海外旅行記らしい海外旅行記です。やはり、相手の気持ちが読めないから仕事にありつけない労働者のお話がいたり小銭が欲しい女の子がいたりもしましたね。 両者共にほとんど日本では詐欺の扱いになるでしょうね。 日本でも、1990年代から平成10年代にかけて署名の後に寄付金を求めてくる人がいました。 平成20年代になって減ったようには感じます。日本国内であっても、ちゃんとした説明も無しに金銭を求める人物がいたので閉口したことがございました。そちらの責任で対応してもらいたいです。
 しかし、時間を尋ねるのを踏み台にして金を求めるというのは、悪い詐欺師でしたね。 
 スモーキーマウンテンは、平成20年には撤去されていたそうですが、過去とは状況が大きく異なり存在はするそうです。実質的に移転し代替の町がパヤタス・ダンプサイトことスモーキーバレーとして存在してるそうです。詳しくは各自でお調べください。
 実際に赴くのと想像では違う部分があったと考えないといけないかもしれません。
 メーデー等が存在しているから労働者の立場は守られています。
 私が行ってきた、ブリティッシュコロンビア州では表通りは万人向けでしたが、裏通りになると「関係者以外立ち入り禁止。」という雰囲気で恐怖でした。 
 私は海外旅行保険に加入してから旅行に行きました。皆様にも海外旅行保険の加入を推奨します。一応は保険の世話になること無く過ごせましたが被ってた野球帽を盗まれそうになった事があり争いになりかけた事がございました。有料でしたが、その野球帽に個人を特定する刺繍を防犯対策でしておいて良かったです。質問をしてきた人が私の野球帽に刺繍をしてるのを見て諦めたのが、その理由です。万が一の時に無関係な人が私の野球帽を保有してると「なぜそれを持ってるか?」は問われますよね?不条理な人が悪い。
 依頼してないにも関わらず余計な事をした人はいました。
 前者は、私がブリティッシュコロンビア州の街並みを撮影してたら私に対し余計な発言をしながらショッピングカートを町中で動かしてた人がいてそれを見てた人が走ってきて猛抗議した後で小銭を要求してきたが無視をして立ち去った事を連想します。「ホテルが近い場所であったから助かった。」といった側面があるのかもしれません。
 後者は、フェイスブックを通じて毎日、どうでもよい発言を私にしてきてとうとう安全に関わるような質問をしてきたからダメ出しをしてブロックした日本人もいました。関われない人はいます。 強要とはした方ではなくてされた方が判断するものです。
 本当はこういった事を伝えてはいけないかもしれないが奇抜な状況を見たいという気持ちは否定はしないが、どこか上から目線が好きな人もいるようです。
 私は、長距離歩行と時差ボケで疲れてたから冷静に過ごせるように何とか最善を尽くしてました。
 フィリピンは大きな国内問題を抱えています。経済、国防、治安、環境対策と問題がゴミと同じように山積してるようです。
 実は、バンクーバーに行った時にも教会の中で背広ではなく一般的な衣服を着用した上で3時間プログラムに参加してたフィリピン人男性の教会員がいました。彼と私はそのワードに初めて行ったという共通点がございました。
 教会の中でリーダーシップについて語る時があり、カナダ人の白人が「海外の首脳についてどう考えるんだ?」と発言してたから私は「ENEMY?(許しがたい敵?)」と発言したらそのカナダ人が爆笑した後で我慢してたフィリピン人の教会員が爆笑し全体が爆笑した前例がございました。日本人でも真正保守であれば色々と理解し賛同してもらえると思います。
 一度でも海外に行くか否かは大違いで日本との比較が簡単に行えるようになりますがフィリピンの場合は日本とは状況が大きく異なってるようです。

台湾旅行記  2017/6/10(土) 午前 0:53




紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。




#18 シャオエン (台湾旅行記 リターンズ)

 1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。
 「ん? 何だ? 何だ?」と足を止めて眺めていると、警察官に職務質問されそうになったのであわてて立ち去る。官庁街であるただっ広い道路の交差点にも市民が集まり始めた。その中にはテレビ局の中継車がスタンバっている。向こうの道路からはデモ隊が何かをシュプレヒコールしながら近づいてきた。一体、何が?  中華人民共和国でも攻めてきたのか?前年には台湾史上初の民間による直接選挙で李登輝が選出された。台湾独立派を恐れる中華人民共和国は大規模の軍事演習を行なったり、台湾海峡にミサイルをぶち込んだりと威嚇を続けていたのだ。
 「何があったんですか?」 近くにいたテレビ局のスタッフらしき人に聞いてみる。
 「テレビ・スターが殺されたんだ」 彼は詳細を説明する英語力がなかったのか、それだけ言うと黙ってしまった。俳優が殺されたぐらいでこんな騒ぎにはならないだろう。警官隊と機動隊が見守る中、デモ隊とそれに呼応した市民が気炎を上げていた。
 その夜は「華西街観光夜市」に行った。長い商店街は地元の人や観光客でごった返し、店の人たち、特に包丁片手にヘビやスッポンの生き血を売るおじさんの口上で賑わっていた。中にはヘビの頭を噛みちぎり、尻尾をくわえて振り回すという猟奇的おじさんもいた。不思議なのは生き血や漢方薬を売る店にはテレビが置いてあって、そのどれもが日本のプロレスを映していたことだ。やっぱり、精力がつくということをプロレスに託して表現したかったんだろうか。しかし、店先に繋がれていたオランウータンはどういうことだ。
 こんなにもヘビ屋やスッポン屋があるのにはわけがある。裏通りに売春街があるからだ。そこに行ってみた。売春宿は外から覗くことができ、ピンクの灯りの下で女性が立っている。その前の道路には怪し気な男たちが列を作って座っていた。
 
 ホテルに戻り、「あっ、そうか、あれは」と気がついた。三週間前に劇画作家の梶原一騎と歌手、女優のパイピンピンの娘が誘拐され、殺害されたのだ。犯人たちはその時点でも逃亡中で、さらに凶悪な事件を繰り返していた。後に5万人もの市民が治安改善のための法律改正や政府官僚の辞任を求めてデモを行ない、内閣は総辞職に追い込まれた。そのデモだったのだ。当時は日本のみならず、世界中にそのニュースが連日のように報道されていた。私はその事件の残虐さを知り、誇張ではなく、犯人たちへの激しい怒りと殺された17歳の少女への思いで胸がつぶされそうになっていた。
 少女の小指を切断し、母親へ送りつけるという行為。食事も与えず五日間に渡って暴行を加え続け、最後には遺体を全裸で排水溝に捨てるという行為。肝臓の五か所が破裂。胸部や腹部等に夥しい量の内出血。死因はロープで首を絞められたための窒息死。
 少女が味わった地獄のような恐怖と苦痛。私には懸命に想像してみることしかできない。そして犯人たちのこと。パイピンピンと犯人たちは経済発展を遂げる以前の貧しい台湾を共に生きた、同世代の人間だった。主犯格三人のうち、二人は警官との銃撃戦中に自殺。あとの一人はなおも逃亡し、南アフリカ大使館武官官邸に立て籠ったが、ついに投降した。パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。
 せめて私は自分の命が続く限り、17歳で殺された少女のことを忘れないようにしようと思う。そうすれば彼女は生きる。私たちの記憶の中に彼女は生き続ける。
 
参考文献 「燕よ、空へ」 パイピンピン著 木村光一訳 / ルー出版

 
管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 あれから20年以上経過するのか・・・(この部分は増加はすれども減少はしません)
 1990年代のお話であっても、平成10年代の台湾旅行記ではありません。端的には、平成9年五月のお話とお考え下さい。恐らくは、ゴールデンウィーク期間中でしょう。
 長い人生では、旅先で大きな犯罪が発生したり事故が発生するのを目の当たりにある時がございます。 私も、全ての詳細は語りませんが、全く無かった訳ではありませんでした。 唯一の例外としてお伝え出来るのは1990年代初頭に目の前の車が分離帯に乗り上げて横転事故をしたのを連想しました。その点だけ伝達が行える位です。
 平成22年12月に兵庫に赴いた時に台湾人観光客数名と軽く英会話をしましたがビビ○ン・スーについて話しながら私鉄に乗ったのを思い出しますね。
台湾人と日本人は良く似ていて一見しただけでは、判別し難いですね。
 今回のお話は1990年代の平成9年のお話ですが、治安の悪化は、2010年代になっても継続している。安全神話は崩壊しています。17歳で殺害されたといえば女子高生が殺害されたと考えても間違いではありません。しかも、虐殺でした。被害者が有名人であるとか金持ちであるとかではなくて、殺人の無い社会作りが必要なのですが、それには政府がしっかりしてもらわないといけない。万人の人命は平等です。
 多くの親御さんは苦労して子育てをしているし労働に励んでいる。それを無効化するような犯罪者達はどの国であっても否定される。 少なくとも、日本・台湾・南アフリカ共和国の国々で注目を浴びた事件であった。
 思いは大きいが、なぜか上手に伝えられません。 やはり、憤りと悲しみが大きいからでしょうね。 彼女には罪が無かったが殺害された。 彼女の母親が治安改善運動をしているのは、必然です。
 人にもよるが、海外旅行に行った時に犯罪が発生してるのを見たかどうかの差異は存在してると思います。
 私の場合は、バンクーバーのロブソン通りの路上で座ってる太った女性がわめいてたのを見た程度です。
 海外旅行に行くか行かないかは各自で熟慮の上でご決断下さい。昨今、悲劇が発生しており個人の力ではどうしようもない問題が発生してます。影響を与える事が行えても責任はとれません。私が行ってきたバンクーバーでも私が行った2015年(平成27年)はともかくですがその翌年の2016年(平成28年)にバンクーバーで英語を学んでた日本人が殺害される悲劇が発生しました。 
 そのことから言える事ですが、海外旅行へ行くにしても過去完了形で連絡をされてもよろしいかもしれません。不要な質問をする人がいます。そういった人は、公共の敵達ないしは質問者が公共の敵かもしれません。愚かな質問は実質的に一般人ばかりか公共の敵にも情報提供してるという概念が欠落していて罪悪感が欠落してる慇懃無礼な悪人はいます。
 現在(平成20年代)は過去と大きく状況が異なってます。タブレットやスマホが一般的になってSNSが円滑に行える影響は大きいです。
 率直にお伝えしますが、何等かの愚かな質問をしてきた人がいて断ると逆上し激怒する人は日本には多いです。強要してる自覚が無い悪人はいます。
その対策は必要だと思います。基本的にはあえて伝えないという選択もございますが、万が一海外旅行中に何等かの詰問をされることになったら、以下の例文を特別に伝達します。

「海外は日本国内と違って、治安が悪く安全に関わるのでそういった質問は控えてください。万が一の事があったらあなたは責任を取ってくれますか?」

 それでもしつこくフザケタ質問を繰り返すような人物ですと、関与する必要が無い人ですので手を引く事を推奨します。この決断については、冷たい人だと考えてもらいたくないが、実際に悲劇の前例が存在してるから伝達してますので皆様には賛同し正しく認識してもらえると幸いです。貿易商人によっては「偽計業務妨害をされて辛い。」と思う人もいるかもしれない。海外で生活する時はそれなりに多忙ですし(インターネット)通信のやりすぎで飛行機の時間に乗り遅れたとしても迷惑をかけてきた人(日本人か外国人は問わない)は責任を取らないに違いありません。私は帰りの飛行機には遅れなかったが少々遅い時間に帰国便に着席したと考えてます。 
 海外の犯罪者対策ばかりか国内のストーカー対策がこれからの海外旅行には求められてます。それは、単純に海外の治安が悪い町に意図的に赴かないという事だけでは収まらないのです。
 皆様、海外旅行の場合、国内旅行とは違う標準が求められると考えていただきたい。

北京の床屋  2017/6/11(日) 午後 10:23



#21 北京の床屋(リターンズ)
2011-08-01 | Weblog
NO21 北京の床屋

at 2003 10/17 22:32 


 北京に来てから気になっていることがあった。理髪店である。町中のあちこちに理髪店があり、しかも深夜まで営業しており、しかも従業員は若い女性ばかりなのである。若い女性に深夜営業。怪しい、怪しすぎる。他の人間ならいざ知らず、この私の目はごまかせ~んっ! 社会主義国でそんなことがあるのだろうかと不審顔の貴兄に貴女、同じ社会主義国のベトナムでは理髪店と売春が結びついていることは周知の事実である。何でも表向きは普通の理髪店なのだが、希望する人にはスペシャルなサービスを施してくれるらしい。実際、ホーチミンでは北京ほどではないが理髪店がちらほらと目につく。夜、シクロに乗っている時に店内を見たら、いつも何人かの女性が椅子に座って暇を持て余していた。中国よ、お前もか。私は大いに失望した、わけでは全然ないのだが、これは是非調査せずにはおられまい。中華人民共和国の首府、北京よ、農民と労働者の叡智と努力によって共産主義国を建設するという高邁な理念の化けの皮をこの私が引っぺがしてやるわ。うわーはっはっはっ、バカめっ!(はオレだろうな、やっぱり)
 というわけで、故宮の近くに泊まっていた私は夜の11時頃にホテルを出た。う~ん、どの理髪店に行こうか? なるべくなら、きれいな従業員のいる店がいいだろう。もちろんこれはベールに包まれた中国人民の実態を調査するというフィールドワークであり、私には不純な気持ちなど毛頭、爪の先ほども、これっぽっちもないのであるが、どうせならきれいな女性の方がいいだろう、うん。しかし、調査があまり進行しすぎると危険なことになるような気がする。その時は腕に覚えのあるカラテで大声を出して逃げればいいだろう。もし女が中国拳法の名手で無理矢理、組み伏せられたらどうしよう。きれいな体で戻ってこられるかしら。不安だわ。いや、毛沢東も 「崇高な目的達成のためには敵を恐れることなく邁進せよ」 と言っていたではないか。(おい、そこのあんた! どこが崇高やねん! って、つっこんだだろう、今)
  私は決心し、心の中でインターナショナルを歌いながら目星をつけた理髪店へと勇躍乗り込んでいった。(つづく!)

管理人マーキュリーマークからの感想文と皆様への伝達事項
 ここでいうリターンズとは「過去に発表したドリアン長野の海外旅行記を、管理人マーキュリーマークの感想文を付加した上での(事実上の)再掲載。」とお考えください。
 射撃のように海外でなければ体験が出来ない事柄は多いと思います。 まぁ、あれです。バカ丸出しのフザケタ文章なのでお気楽に読んでいただければ幸いです。一応は、お笑いエッセイなので、真剣に読まないようにしてください。 ドリアン長野は平成20年迄に悔い改めています。
一方で、過去から強調しておりますが、ドリアン長野氏の空手の腕は、黒帯だけあって一級品です。
 実際に私がブリティッシュコロンビア州に行った時ですが、やはり色々とあって現地時間の午後11時(日本時間午後3時)を過ぎて町中を歩くことがございました。ヤバイ女がホテルの近くの路上にいて無視をして走り去った事がございました。あんなブサイクは相手にしたくない。
 
#22 続 北京の床屋(リターンズ)
2011-09-01 | Weblog
NO22 続 北京の床屋

at 2003 10/24 19:39 編集

 <前回のあらすじ>
 中国ってとこは人はやたらと多いし、言葉はあんまし通じないし、列には割り込むし、日本人だとボるし、ひまわりの種はあちこちに散らかすし、おまけに女までが(以下略)
 店内は清潔で明るく、従業員は男が一人、女が三人、そして男の客が一人いた。そのうちのソファーに座っていた女が立ち上がって椅子に座るようにと促した。営業時間を聞いたら、朝の8時から深夜の1時までだそうだ。なぜ一日17時間も営業してるんだ? 人民をそんな長時間も労働させていいのか? ますます怪しい。女はまず私の首に前掛けをし、洗髪台に頭を突っ込むようにと手振りで示した。その通りにすると女はいきなりシャンプーをし始めた。片言の英語ながら、いろいろと話しかけてくる。 (普通の理髪店に見せかけてるな。パチンコ屋が店内で出玉を換金すると賭博と見なされるから外に景品所を設置するように、これは当局を欺くためのカモフラージュに違いない) 
 シャンプーが終わると女は聞いてきた。 「マッサージはどう?」 (きたあーっ!) 「フェイス・マッサージもあるし、全身のもあるわよ」 「いっ、いくら?」 「100元(1元は約14円)」(高い) 私は考えこんで顔のマッサージを頼むことにした。顔だけなら安心だろう。 「それじゃあ、こっちへ」 なんと女は店内にある個室へと案内するではないか。ドアを閉め、二人っきりになる。広さは二畳ほどだ。 (やばい) 棚にはいろいろな乳液やらクリームやらが載っている。 (ますますやばい) 私はリクライニングの寝椅子に寝かされた。 (ドキドキ) 女は私の顔にクリームを塗り、マッサージを始めた。それが終わると先端が輪になった金属製の細い棒で顔を突いてきた。(ん?) あ~、気持ちええ。これは毛穴から脂を抜き取るためらしい。さすが中国式マッサージ。お肌がすべすべ。 「次は全身のマッサージしてみない?」 (きた、きた、今度こそきたあーっ!) 「あのお~、それってどんなマッサージ?」 「は?」 「だから、どういった類いのマッサージかな、と」 「言ってる意味が分からないわ」 
 ここでやめたらせっかく潜入した今までの苦労(なのか?)が水の泡だ。私は不本意ながら受けて立つことにした。さあ、殺せ。女は気合いを入れると、脚から腕から背中から、仰向けからうつ伏せにしたりと汗だくになりながら長い時間をかけて体中を揉んだ。サンダル履きで一日中歩いていたので足はまっ黒。女は一瞬ひるんでいた。終わると体力を使い果たしたのだろう、フラフラと奥へ引っ込んでいった。最後に若い男がハサミとバリカンで念入りにカット。ドライヤーをかけ、スプレーで仕上げ。終わった。1時を過ぎているのに年配の客が一人、入ってきた。(なぜ1時に髪を刈りに?)
 料金はマッサージが100元、シャンプーが100元、カットが50元。それを230元まで値切った。今回、多額の調査費を投じて私が得た物は中国式ヘアカットと、北京の床屋は健全な床屋だったという事実だ。諸君、北京に来たら安心して調髪してもらえよ。その前に料金はちゃんと聞いておくように。体はきれいだったが、お金もきれいになくなった。ふっ、私の思い過ごしだったようだな。疑って悪かったぜ。だけど中国人、ぼるなよおおおおお~っ!!(魂の叫び) しかし、中国はこれで終わるほどまだまだ甘くはなかった。(というわけで上海編につづく)
 
 管理人マーキュリーマークからの感想文と皆様への伝達事項
 結論から言うと本人にとっては、期待外れであったのかもしれません。
 平成20年代のチャイナの理髪店の料金は全く知りませんが、この当時の価格だと日本と大差が無いかもしれませんね。日本国内でも安価な理髪店(美容院も含む)と高値の理髪店(同様に美容院も含む)が混在しているから何とも言い難いです。マッサージはいらないにしても、シャンプーとカットでチャイナでは150元で、1元が¥16.43だから、約¥2465? (為替相場は平成29年6月に調べました)
最近、流行のシャンプー無しの¥1000カットの店と比べるのは論外かもしれませんが、今となっては日本国内でも¥690で普通に散髪(カットのみ)をしてくれるお店がございますのでどこかの国よりも安いのかもしれません。皆様、海外に行く前に散髪位は済ませておきましょう。海外の散髪の技術は店によるらしいが同じ日本人が行っていないと下手な場合が多いそうです。バンクーバーで日本人経営の床屋さんが開店した連絡が入ったのを連想しました。
 日本の理髪店さんも店舗によっては、チョキチョキと髪の毛を切ってもらっている時に悲しくなる発言をしてしまう人がいて、次回以降は他の理髪店に切り替える要因かもしれません。無礼者に支払う金は無い。
17時間労働の一件ですが、実際の所、日本国内の理髪店や美容院によっては閉店後、修行の場になっていて結局、一日の労働時間が長時間になっている理髪師や美容師もおられます。
 北京の床屋が長時間営業してたのは時差ボケで困ってる外国人向けでしょうか?
 しかし、行列の横入りは嫌ですね。日本で行ったら、本当にケンカになってしまいます。 
 日本国内だとまた、違った種類の問題がございますね。これは、真夏の時期ではなくて過去(2010年以前の平成20年代初期のある寒い日)のお話です。
 ある美容院で防寒着を店内で着用させてくれなかった従業員がいたので帰宅後、怒りのメールを彼の上司を兼ねた私の知り合いに送信しました。 それなりの返答があった後、不躾な行いをしでかした彼は後に退社した。 店の中では、冷静になって、後に運営している企業等に連絡するとそれなりの結果が得られます。 辛い艱難辛苦を乗り越えて真面目に勤務してやっと給料が得られるが、せめて、日本国内では金の支払先では嫌な思いを体験したくありません。
 京都市の出町柳駅近くで営業してるファラフェルガーデンのファラフェル(イスラエル料理)はとてもおいしいが、ブリティッシュコロンビア州で購入したファラフェルはおいしくなく失敗でした。10月であったが、ノースバンクーバーのあの店ではファラフェルよりもアイスクリームを買っておけば良かった。
ドリアン長野の中国旅行記のお話は幾つも存在しますが今となっては2010年(平成22年)以前のお話ですのでそういった部分を勘案した上でお読みください。

読書感想文 平成29年6月  2017/6/13(火) 午後 10:49

「困難に向かい合ったとき、もうだめだ、と思ったとき、想像してみるといい。三時間後の君、涙がとまっている。二十四時間後の君、涙は乾いている。二日後の君、顔を上げている。三日後の君、歩き出している。」

原田宗典の愛読者であったが、その妹である原田マハ氏の著書を読んだのはこの本が初めて。西原理恵子さんは「読者は読み手のプロだから」と言った。プロという定義はここでは脇に置くが、読みながら何度も「うまいなあ」とつぶやいたのだった。この一冊で原田マハという作家に魅了された。

OLであった主人公がひょんなことから政権交代を謳う野党のスピーチライターに抜擢される。目頭が熱くなること数回、言葉の持つ力を改めて認識される一冊。



飛んで上海  2017/6/13(火) 午後 11:49




#23 飛んで上海

at 2003 10/31 19:02 編集

 出発前から中国だった。関空に着いたら、いきなり飛行機が2時間の延着だ。仕方なく待っていたら今度は変更(って?)ということで更に1時間待ち。中国国際航空に乗るはずだった我々はなぜか中国東方航空機に乗せられ、予定より3時間10分遅れでやっと飛び立った。機内放送ではそのことについては一切触れられることはなかった。やるな、中国。さすが豪放磊落、天衣無縫、質実剛健の中国人だ。少しぐらい遅れたからって、四の五の言うんじゃねえよ、墜落するわけじゃあるめえしよ、という態度に私は好感を持つぞ。いいぞ、中国、等とその時はまだ余裕をかましていられた。
 夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。
 「○○ホテルに泊まりたいんだ」と言うと猪瀬は「知ってる」と言う。ああ、いつもならそんな手口には乗らないのだが、なぜか猪瀬の後をのこのこと付いて行き、タクシーに乗った。助手席には別の男が乗り込んできた。アジアではこういう事はよくある。タクシーを私用に使うのは日常茶飯事、勝手に友人や家族を乗せたりするので私は気にも止めなかった。猪瀬の相棒が高級そうなホテルのパンフレットを差し出す。
 「○○ホテルは古くて部屋も狭い」
 案の定、タクシーはパンフレットの高級そうなホテルの前に着いた。 「この野郎~」と思ったが宿泊費を聞くと、そう高くはない。夜も遅いし、この高級そうなホテルに泊まることにした。ボーイに案内されて高級そうな部屋に入ると猪瀬たちも付いてきた。ボーイが出て行くと、猪瀬が両替しないか? と言う。レートを尋ねると銀行と同じなので1万円換金することにした。これで用は済んだと思ったが、極悪人の猪瀬はその後、信じられないことを言ったのだ。
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
 てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。渋々100元だけは渡したが、あとの100元は絶対に払えんっ! と長い間言い争った。しかし、極悪人猪瀬は諦めない。朝まで言い争っていてもよかったのだが、私は言い争いをしにわざわざ中国までやって来たのではない。観光をしに来たんだ、観光を! 明日も早いのでいいかげんに寝たい。私は負けた。極悪人猪瀬に100元払って追い返した。くっそ~、お金も惜しいが、それ以上に極悪人猪瀬に負けたことが悔しい。気分を変えようと食事をしに外に出たが、レストランも食堂も屋台も何もない。あるのは高級そうなアパートと理髪店だけだ。(ここもかいっ!) どうやらここは上海のはずれのようだ。その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。(何で上海まで来てこんなもん食べとるんやあ~~! 猪瀬~っ、てめえのせいやあ~!!)
 翌日は市街地にある東亜飯店に泊まる。このホテルは上海銀座と呼ばれる南京路に面しており、常にごった返している。夜ともなるとネオンサインがまたたき、地元の人間と観光客とおのぼりさんと物乞いでにぎわう。あ、それと忘れてならないのが繁華街には必須の売春婦とポン引きである。上海ガールもさることながらしつこいのがポン引きだ。もし、あなたが上海に来て東亜飯店に泊まり、夜になって南京路に一歩でも足を踏み出してごらんなせい、びしっとスーツに身を固めた兄ちゃんがすっと近寄り「女はどう?」と聞かれる確率はインドのデリーで観光客がお金をせびられる確率に等しい。さらに歩くと3メートルごとに声をかけられるのは間違いない。南京路を端から端まで歩くと、少なくとも20人からは声をかけられるだろう。(私はここをポン引き通りと命名) バカも~ん、それでも中国か! 全く嘆かわしいわい(by 磯野波平)。私も一人の兄ちゃんにマークされ、しつこく勧められるのでしつこく断るのだが、諦めないので「女は嫌いだ。男がいい」と言うと、「それじゃあ、カフェに行こう。案内するよ」と後ろも見ずにスタスタと歩き出した。バ~カめ、他のカモを探すんだな、と私は反対方向へ歩き始めたのだが、そういえばテレビのバラエティ番組でアグネス・チャンがこんなことを言ってたな。 
 「中国で誰かが結婚するとするでしょう。相手が上海人だと親は『とんでもない! やめなさい!』って反対するんですよ。ホント、これホントの話ですよぉ」 こんな十何年前の話を思い起こさせるとはさすが中国三千年の悠久の歴史。 私が親だったら、やっぱり反対するな。(まだつづく)

 
管理人マーキュリーマークからの感想文と皆様への伝達事項
 中国旅行記です。
 大手旅行会社のパッケージツアーであれば円滑に旅行が行えるであろうけども、本当に一匹狼の海外旅行なので怒りのチャイナエクスカージョン(中国小旅行)といった具合です。
 そればかりか、上海と香港の競争意識というものは日本における東京と大阪に匹敵する争いも裏側にあるとは思います。 実は、中国のあの町が悪いといったお話はよく聞くお話なのです。「某Fという町の住民は何を考えているか分からない。」と直に国内在住のチャイニーズに私は教えられました。
 今回も、ある意味、典型的な辛い思いをしてきた海外旅行のお話ですね。中国で中華料理ではなくて、ハンバーガーとジュースというのも辛かったんでしょうね。私はカナダでハンバーガーとジュースを食べる機会が何度かございましたが全く否定的にならずに逆に肯定的でした。 テレビ番組の豪華絢爛な海外旅行のお話とは違い、辛く惨めな個人のお話です。


#24 飛んで上海 その2(リターンズ)
2011-11-01 | Weblog
上海の裏通りを歩いていると、かつてはここいらに阿片窟や娼館が立ち並んでいたのかなと感慨深いものがある。租界時代に建てられたオールドホテルの「和平飯店」なんか往事を偲ぶよすがとなるに充分だ。ここにあるオールド・ジャズ・バーでスイング・ジャズに耳を傾けていると魔都と呼ばれ、スパイが暗躍した国際都市上海の在りし日の姿が彷彿としてくる。嗚呼、東洋のマタハリと呼ばれた男装の麗人、川島芳子と李香蘭(実は日本人、山口淑子)との倒錯した怪しいロマンス。「白蘭の歌」「支那の夜」そして「上海の女」に江湖の婦女子は紅涙をしぼるのであった、って私はいくつやね~ん! (と一人でつっこんでます)
 アミューズメント・パークの「大世界(ダスカ)」はレトロ。老朽したビルの中に小部屋がいくつもあり、京劇、奇術、映画館、ディスコ、ゲーセン、似顔絵、お化け屋敷等をやっている。野外ステージでは私が行った時は子供たちが雑技をやっていた。ここの雰囲気は日本の昭和三十年代であり、大阪の新世界界隈に似ている。そういえば、ダスカの作りはフェスティバルゲートにそっくりだ。もしかしたらダスカにコンセプトを合わせて作ったのかもしれない。レトロっていうのは古い感覚と新しい感覚との境界線にできるのだと思うが、その極めつけが街のあちらこちらにあるカフェだ。 
 上海でカフェと呼ばれる喫茶店は上海人にとってのおされな社交場となっているらしい。外装も内装も全然、垢抜けてないのがかえって新鮮だ。私の入ったカフェは席がつい立てで仕切られていて(同伴喫茶?)、ビニールのテーブルクロスの上にアクリル板が敷いてあり(う~ん、レトロっすねえ)、ろうそくが立っている。何だか懐かしい。コーヒーはネスカフェで15元。ソフトドリンクはココナッツジュースしかなくて(しかも缶入り)、20元。日本人は珍しいらしく、店の人たちが話しかけてきたので彼女たちと筆談をした。
 上海を旅した人の本を読んでいたら、上海風呂に入りたくなった。幸い、宿泊しているホテルの裏に「浴徳池」という大きな垢すり風呂がある。さっそく行ってみた。まず、バスタブにつかって、体をあたためる。それからすっぽんぽん状態で大理石の台の上に寝そべり、垢すりをしてもらうのだが、これがくすぐったい。それが終わると個室に案内される。バスタオルを腰に巻いて待っていると、男が二人現われた。一人はマッサージ担当で全身を隈無く揉んでくれる。もう一人は手足の爪を切り、やすりで磨き、角質まで削ってくれた。その間にも別の男が煙草を勧めたり、コーラを持ってきたりと至れり尽せりである。全行程の所要時間は2時間。いい気持ちで受付に行き、請求書を見せられてびっくり! アメリカン・コミックなら目玉が30センチほど飛び出てたね。 二人分で884元!(その時は友人と行ったのだ)
 明細を見ると、爪磨き代はもちろん、コーラ代やおしぼり代までしっかりとつけられていた。そうならそうと、事前に言えよっ! 
 「高い」と思わず言うと、「タカクナイヨ。ニホンジン、ミナハラッテクレルネ」(日本語)と言うのだが、日本人は納得して払ってんのか?
 「もう少し安くならんか?」とねばっていると、従業員が五、六人出てきて無言で圧力をかけてきた。暴力バーならぬ、暴力風呂かいっ、ここは。そんなことだったら、六人の男にチップを計220元もやらんかったらよかったわい。
 「女、いらない?」 帰り道で追い討ちをかけるように、またポン引きが声を掛けてきた。(しかも同じ男) 
 ということで、今回の旅で得た教訓。「インド人と中国人には勝て~~んっ!!」 はいっ、大きな声で皆さんも御一緒にっ! (泣) 

 管理人の感想文と皆様への伝達事項
 この海外旅行記は、平成初期から平成10年代にかけて作成されたので、平成20年代の現在とは違ってきている部分があるのを理解した上でお読みいただければ幸いです。
 スパイや忍者はいつでもどこにでも存在していて単純に有名になったかどうか位のようです。
 上海も含めて、日本人があまり行かない海外の店は案外、良くないお店というか悪評がすでに知れ渡っていたり何らかの情報が広まっていたのかもしれませんね。実際の所、見積もりをせず(ないしは、価格を把握しないまま)お金を支払うようなことがないようにしないといけませんね。ある程度は、普通の海外旅行記を読んだ上で海外の町を探索してもよろしいでしょう。ドリアン長野の場合、半ばぶっつけ本番であったりします。
 私は海外旅行案内書で紹介されてたお店に行くことが多かったですが、やはり紹介されていないお店でも商品を購入したばかりか食事もしました。
 そういえば、インドと中国の両国は、10億人以上の人口を抱える国家としても有名ですね。
 
 軽自動車で有名な某S社も、インド進出には今でこそ成功し賞賛されていますが、過去には相当苦労したそうでインド側から追加の投資を求められても拒否をして日本のビジネスのやり方に目覚めさせた過去があったそうです。 そういうこともあってか、日本の民間企業は世界最強とも言われているそうです。実際の所、内容の是非については大別されるかもしれませんが、某T社も自動車の販売台数が世界一位になりましたね。 ご存知のように、販売台数が多くても経営面で厳しく黒字と赤字を短期間で繰り返していたそうですからその辺りでも考える人は多い。評論家によっては、「部品の仕入先を項目別で一本化したのは過失だ。」と主張しています。
 日本向けの部品を製造し販売してるがゆえにそれなりの待遇で生活をしていると言われている在外邦人が高いお金を海外で支払っているかもしれません。在外邦人の一部は海外ではリッチでも日本では月並みです。

 平成10年代には営業してたフェスティバルゲートの跡地ですが、マルハンが平成26年の年末に開店した後、小売店のドン・キホーテが平成27年二月から営業してます。すでに立ち寄った人も多いのではないでしょうか?

 皆様、周知されてると思いますが空港連絡鉄道はご存知でしょうか?
 国の内外を問わずにすでに10か所(10駅?)以上存在してます。一例を示すと日本国内においては1994年(平成6年)から運行が開始されてる南海空港線のラピートだけでなく海外においてもブリティッシュコロンビア州で利用が行えるトランスリンク(公共交通機関)が運営してるバンクーバー・スカイトレインのカナダライン(平成21年に開通)は有名です。上海虹橋駅は平成23年(2011年)には開業したそうですのでドリアン長野が行ってきた平成10年代には存在してなかったそうです。(平成29年現在)上海虹橋駅は余裕で五年前には開業してましたので、この旅行記を読まれた方の中にはすでに上海虹橋駅を利用した経験を持つ人もおられると思います。周知されてるが一日当たりの利用客が一万人以上であるばかりかJR西日本と南海の共同利用駅として有名な関西空港駅(合算して2万人以上が利用してると言われてる)と、一日当たりの利用乗客が10名未満のJR西日本の米子空港駅とは雲泥の差がございます。空港連絡鉄道の最大のライバルはバスのようです。特にホテルや繁華街への直行バスは弱くない存在のようです。
 空港に到着してから円滑にホテルや目的地にたどり着ける手段の情報を得ておくことは重要だと思います。逆説的に考えると、空港を後にしてから次の目的地に到着する為に利用するタクシーも含めた公共交通機関の競争は激しいに違いありません。空港で入国手続きを済ませた後、次の目的地がホテルに直行かホテル以外の目的地に行くかも人それぞれです。奇抜な意見かもしれませんが空港の間近で営業してるホテル(ホテル日航関西空港等)も存在してますから空港から徒歩でホテルに行く人もおられるやもしれません。空港に到着して入国手続きを済ませた後の行動は自己責任です。「空港を後にした次の移動の方法は何か?」については決めておくべきです。無計画だと空港で入国手続きを済ませた後で困る事になります。今回の旅行に限っては航空会社側の遅延の悪影響があったからバス等が利用出来なくなったのでタクシーを利用せざるを得なくなったかもしれません。過去に個人的になんですがホテルに行くのに困ってた人を何度か道案内をして助けた事がございました。空路によっては空港に到着するのが現地時間の午前中だったりします。私がバンクーバーに到着した時は午前10時でした。ホテルに入室が行える時間については情報を得ておきましょう。
 日本国内の海外旅行代理店に空港からホテルの送迎バスを依頼された事はございますか? そういった行動が重要なのを再認識された人は多いと思います。自由は自由ですが、航空会社とホテルの予約だけだと「予約したホテルが空港の間近でない限りは空港からホテルに行くのが難しくなる恐れがある。」といった問題が表面化した旅行記と考える人もおられるかもしれません。
 不便な国際空港は多数ございますが、開業時期は問わないにしても現在、空港連絡鉄道が利用出来る便利な国際空港も存在してます。過去の旅行記という部分について理解した上でお読みいただけると幸いですが現在(平成29年に執筆)は前述したように上海虹橋空港は空港連絡鉄道が利用出来ます。
 人によったら空港を後にしてからレンタカーを利用する人もおられるかもしれません。個人的にはレンタカーの利用は万が一の出来事があると危険ですので推奨はしかねます。無論、全く逆に海外でドライブをしてきたテレビ番組や海外旅行記(旅行記のホームページも含む)は多数存在してるので参考にするか否かは各自でご決断ください。繰り返すようですが海外においてレンタカーを利用される事については、妨害はしませんが推奨もしません。各自の責任です。
 利用が行える空港は少数派とは言えどもすでに国の内外で10か所以上存在してる空港連絡鉄道、徒歩、バス(*1)、タクシー(*2)、船(*3)、レンタカー(*4)等で移動する必要はございます。
 私が強調したいのは、フルパッケージツアーではないフリープランであった場合、どのようにして円滑な旅をするかについて前もって熟慮の上での計画作りが必要なんです。交通費(航空会社や船会社等)の支払いだけでホテルの予約を意図的に欠落させたばかりか重要視されてる海外旅行保険に加入せずに海外旅行に行くことを私は推奨しません。
 フルパッケージは金額が高値であるばかりか予定(提案)が多すぎるから否定して代替としてフリープラン(往復の交通費とホテルの支払いのみ)を選ぶ人がおられるとは思います。
フルパッケージツアーは例外ですが、もしも、海外旅行に行くとしたら、航空券(又は乗船券)、ホテルの宿泊費、海外旅行保険の3種類の支払いを推奨します。後一点付加するとしたら、空港からホテルへの送迎バスの依頼も付加されてはいかがでしょうか?もしも、付加しないという決断を下すなら、空港直結のホテルか空港連絡鉄道や空港からバス(公営かホテル直営かは問いません)が利用出来る場合は例外です。言い換えると、空港で入国手続きを済ませた後で困らない状態を計画しましょう。
 私は空港連絡鉄道については国内では利用しましたがカナダでは送迎バスを利用しました。日本国内(大阪市内)の海外旅行代理店を通じてそれなりの金額の支払いをしただけあって、成果はあったと思います。空港の送迎バスについても日本国内の旅行代理店を通じて予約しておけば安心ではございます。高値とは言いませんが、それなりの料金の支払いが必要なので熟慮の上で各自で見積もりを取った上でご決断下さい。私は空港の送迎バスを利用しました。前述したカナダラインを利用する事は行えても大きな旅行鞄が盗まれる可能性を低減させることから安全性が高いばかりか、運転手さんが現地情報を伝えてくれから色々と得る事が行えましたし運転手がホテルの従業員さんに対して連絡してくれたから入室の手続きが円滑でした。
 ドリアン長野ほど困った訳ではございませんが、考慮すべき部分もございました。往路に限っては関空直行便を利用した事もあって成田空港を利用してバンクーバーにやってくる人の待機はやむを得なかったようです。復路に限ってはホテルの集合時間に私は遅れなかったがそもそもの集合時間が遅めでした。空港に到着してからの手続きが長時間に至った事もあって航空機内(帰国便)で着席が行えたのが出発の40分前だったから微妙な状態でした。及第点は取れてるから批判はしておりませんが複雑な思いです。
 私は今回の旅行記を読んだこともあってタクシーを海外で利用しなくて良かったと思ってます。国内旅行のお話ですが、平成10年代のある日、国内(北海道)旅行の為に関空(KIX)を利用する事から南海難波駅に行く必要があって地元から国内のタクシーを利用したことがございましてその時の運転手さんは大変素晴らしい人であった。従って、タクシーの全面否定はしてません。
 色々な意見がございまして、空港連絡鉄道が利用出来るのは良いが目的地になってる予約したホテルが駅から遠いのでバスを利用する決断を下したばかりか路線によっては鉄道料金が高値といった問題等が混在してるようです。駅前のホテルの料金が高値なのを理由に海外においても意図的に郊外の安値のホテルを選ぶ旅行者はおられるそうです。関西空港駅も含めて人気がある国際空港に近接する駅の利用料金は米子空港駅を除外してある程度の金額になるのはやむを得ないようです。町ごとに料金が違ってくるので交通費の金額については各自でお調べください。そういう訳で、もしも、本当に海外に行く事になったならば前もって海外旅行案内書を読んで経費等については調べておくことを推奨します。海外旅行の過程での料金の支払いは複数回に至るしどうしても出費は避けられません。過去にブリティッシュコロンビア州に旅行したこともあって、現地のホテルのインターネット上の広告を確認する機会がございました。第三者の海外旅行記の意見も大変参考になります。一回でもその街に行って散歩をしたりすると必ず土地勘が出来上がるので考え方は大きく変わると思います。無論、土地勘といっても僅かな距離です。私は日本の2.5倍は大きいと言われてるブリティッシュコロンビア州の中のメトロ・バンクーバーの一部だけ知ってる状態ですのでもっと詳しい人は多いに違いありません。

 海外旅行に行くのは良いが交通費(航空運賃や乗船券等)の支払いだけで海外に行くことを私は推奨しません。フリープランと言えども、交通費、ホテルの宿泊費、空港からホテルの送迎バス、海外旅行保険の4種類の支払いを海外旅行代理店にて行う人は多いであろうしそういった行動を推奨します。人によったら海外のお友達に全てを委託するのかな?もしくは、海外に不動産を保有されている日本人も多いと言われてますからホテル代の支払いの削減は行えるのであろうか?
ただ、ある程度の支払いは不可避でその点は賛同してもらいたいです。搾取することしか頭にない人は海外旅行に行く資格は無い。空港税や空港利用料金の支払いが求められたりビザの料金等も存在してます。昨今、航空会社とホテルと保険会社の3者は各々で営業をされてますが、海外旅行代理店が存在してるのはそれなりの理由があるんです。支払いについてある程度の統合が行える事や送迎バスの依頼や現地情報の相談が行える事やホテルとの提携による値引きは軽んじる事が行えない。
 町によりますが、「空港連絡鉄道が利用出来なかった平成10年代と空港連絡鉄道が利用出来るようになった平成20年代は大違いの町が世界には存在してる。」と考えてもらうと幸いです。その町がどこかについては各自でお調べください。空港連絡鉄道で検索したら即時にそれなりの答えが得られるに違いありません。

*1 現地企業が経営するバス会社ばかりか在外邦人が運転する民間の送迎バスも含む。
*2 タクシーについてはドリアン長野が体験したことのみですが、問題が発生する恐れが日本よりも海外の方が高いようなので妨害はしませんが利用の推奨はしません。
*3 空港から港を結ぶ船の定期航路は存在し、一例を示すと関空から淡路島に行けるそうです。
*4 レンタカーを海外で運転するならば国際運転免許証は絶対必要です。他にも国や地域によっては現地特有の法律(条例等)が存在するようです。詳細は各自でお調べください。国や地域ごとに法律が違うばかりか種類が膨大なので対応しかねるのが本心です。
個人的な意見ですが、皆さんが海外旅行の過程でレンタカーを利用する事について妨害はしませんが推奨は致しかねます。理由は交通事故が発生する恐れがあるからです。

 話は変わりますが、ドリアン長野は上海の海外旅行記を二種類発表してます。
今回の「飛んで上海。」は平成15年に発表されましたので平成15年もしくはそれ以前の旅行記だと思われます。
一方で上海日記は平成17年に発表されました。従いまして、平成16年の年末から平成17年の年始にかけて上海を旅行したお話だと考えられます。

中国についてのエッセイ  2017/6/13(火) 午後 11:56 







管理人マーキュリーマークからのお知らせ

「中国旅行記並びにエッセイ。」から「中国についてのエッセイ 。」に変更させていただきます。理由はリンク先のURLが大幅に変更することが不可避だからです。
 ドリアン長野は、政治信条について語ることがございますが、感想については各自の判断でお考えください。決して、皆様の自由妨害をする気持ちは当方は一切考えておりません。
 平成20年代になって昭和53年から存在する日中友好平和条約が機能してるかどうかについて懐疑的な人は多いが結局は、旅行や仕事で中国へ赴く日本人が多いのが現状です。
海外政府が行ってる行動とその国家にお住まいの方々とは別だと考えて海外旅行に行かれる人も多いと思います。
 当ブログは海外旅行記をメインにしてますが決して海外旅行記ばかりを発表してる訳ではありません。
 今回、特別に中国旅行記並びに中国についてのエッセイをまとめて伝達します。
又、上海日記に限っては長編の為に幾つかに分割して発表せざるを得ませんでしたのでご了承ください。ドリアン長野は過去に一日の出来事についても幾つかに分割して発表してました。過去にヤフーブログの文字数制限が2万文字になってなかったらこのように整理整頓した上での発表は不可能でした。
 話は変わりますが、ドリアン長野は上海の海外旅行記を二種類発表してます。
飛んで上海は平成15年に発表されましたので平成15年もしくはそれ以前の旅行記だと思われます。
一方で上海日記は平成17年に発表されました。従いまして、平成16年の年末から平成17年の年始にかけて上海を旅行したお話だと考えられます。

追記 
空港を後にしてからタクシーを利用したかバスを利用したかで大違いです。飛んで上海に限っては空港を後にしてからタクシーを利用した海外旅行記でしたが、上海日記に限っては空港を後にしてからバスを利用した海外旅行記です。余談かもしれませんが、上海虹橋駅は2010年7月1日に開業したそうですので、2011年(平成23年)以降に上海を旅行した人であれば空港連絡鉄道を利用されたかもしれません。タクシーやバスよりも鉄道を選ぶ人は多い。

以下は、ドリアン長野執筆したエッセイです。



 NO70 反日デモと民主主義

at 2005 04/27 22:31 編集

中国各地で反日デモが出来しているが、事件をテレビや新聞で目にするたびに私は文革を思い出しては「中国は民主主義社会である」との意を強くする。矢吹晋氏の「文化大革命」(講談社現代新書)には「スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁という大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落し、ついには大衆テロに堕落したのであった」とあるが、これは民主主義というイデオロギー以外の何物でもないではないか。文革、学生の民主化要求デモ、そして反日デモに至るまで民主主義は連綿と継承されてきた。ちょっと待たんかい、なんで民主主義社会で民主化要求デモがあんねん。それに天安門事件はどないやっちゅうねん。人民がぎょうさん殺されとるやろ。人権はどないなっとんねん。と言う人もいるに違いない。それはまだ中国が未熟な民主主義だからだ。共産主義に至る第一段階の社会主義みたいなものである。だとすれば、民主主義後進国である中国が日本やアメリカのような民主主義先進国を目指せばいいのか。もし仮にある国家が民主主義を採択し、どんどん人権思想を発揚し徹底していけば、それはファシズムにならざるをえない。何となれば、民主主義はファシズムだからである! 
「ヒトラーは(略)『民主主義の大洪水』をひき起こしたのである。これを人々はナチズム(あるいはファシズム)と呼ぶ。しかし、その正体はなにかと言えば、フランス革命以来一貫してかわらぬ、あの『抑制のないデモクラシー』にほかならないのである。
(「民主主義とは何なのか」 長谷川三千代 文春新書)
カンボジアでのポルポトの大虐殺は文革がなかったら起こりえなかったかもしれない。少なくとも文革に影響されたことは確かである。民主主義・人権思想の持つ、差別を撤廃し全てを均一化するという情熱はポルポトの蛮行につながっている。虐殺があったから民主主義を再検討しようということにはならない。逆に民主主義・人権思想を徹底しようということになるはずだ。中国がチベット人に対して行っているのは紛う方も無く人権侵害である。しかし人権というものは恣意的な概念であり、制度に過ぎない。フランス革命の人権宣言には「国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する」とある。ここに「至高の存在」とあるように、人権宣言は宗教的な儀式であった。神(もしくは神のような存在)から承認された権利(!)であり、人間に賦与されているものではないのである。人権を人類普遍の真理だとするのはまやかしであり、そうと思い込むのは錯誤でしかない。チベット人への人権侵害をやめろ、と人は言う。これは現代の人権思想への儀式を求める鬨の声なのか。全てを人権へと収束しようとする儀式への。人権を持ち出せばチベット人は救われることはない。何度でも言う、人権というのはイデオロギーだからだ。
過去、イギリスは清にヤクザ同然のやり方で戦争をしかけ、多額の賠償金、治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認と上海、広東等を開港させ香港を租借地にしたが、それに対して中国が賠償を求めたとか反英デモを行ったという話は寡聞にして知らない。これは日本への差別ではないのか。今回の反日デモは別の意味で民主主義のあり方を問うべき事件であると私は思う。


NO75 「美味しんぼ」と人道主義

at 2005 06/09 18:54 編集

「美味しんぼ」(作・雁屋哲 画・花咲アキラ)91巻の第6話(“焼き”の深さ)は東西新聞の文化部に配属された記者の話である。彼はインドネシア・スマトラ沖地震に対しての民間の義捐金が少ないことに義憤し、紙面で被災者救済を直接訴えることができる政治部か社会部に転属させてくれとごねる。山岡士郎は文化の重要性を説くためにこう言う。
「ある日本人が、いまだに第二次大戦中のことで、日本を非難し続ける中国人に尋ねたことがある。どうして日本よりもっと長い間アジアを植民地にしていたイギリスを非難しないのかと。彼は答えた。イギリスはアジアを植民地にして収奪したが文化を与えてくれた、だが、日本は奪うだけで文化を何も与えてくれなかった、その違いだと。」
それほど文化というものは重要なものだと山岡は言うのだ。恐ろしい論理である。イギリスの上流階級に広まった喫茶のために清から大量の茶等を輸入し、その輸入超過を是正するために阿片を売りつけていたが、それを拒否した清に戦争をしかけたのがアヘン戦争だ。これはまごう方無い侵略戦争である。その後のアロー戦争も同様だ。これにより支那への支配が始まったのだが、しかしこんなことはイギリスが文化を与えたことによって免責されるのである。喫茶という貴族階級の文化を維持するためには何人もの清の人間が廃人になろうが仕方ないとでも言うのだろうか。原爆投下による大量虐殺もアメリカ文化を与えられたことによって相殺されるということになる。それならば日本による朝鮮支配もインフラや教育という文化を与えたことによって不問に付されるはずである。しかし雁屋氏は「美味しんぼ」や「日本人と天皇」(いそっぷ社)といった著作の中で滔々と日本を一方的に断罪し、他のアジア諸国を単純な被害国として描くのみである。

— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年6月27日 ">


「美味しんぼ」76巻の「中華と中国」は支那そばという店名に憤慨する支那人の話である。支那というのは蔑称であるから中国と呼べ、というのが彼らの主張だ。実は支那というのは蔑称でも何でもなく、むしろ支那という名称を廃止せよと強要していることが日本に対する差別であるということが評論家の呉智英や支那文学者の高島俊男といった識者によって明らかにされている。この名称問題は靖国神社参拝や歴史教科書問題につながっている。以下は小泉局長と山岡の会話である。
小泉 「事は簡単だ、支那という言葉がどんなにいい言葉であろうと、蔑称ではなかろうと、相手がいやだと言うことは、やめればいい」
山岡 「おっしゃる通りです、相手がいやだと言うことはしない。これは人間同士の間でも、国と国との間でも、同じことじゃないのかな」
中国の日本に対するバッシングは国内問題から目をそらせ、人民を極端な国粋主義(ショービニスム)に転化させる政治的意図であるというのは周知の事実だ。日本は中国のサリーおばさん(Aunt Sally;年増女の木像の口にくわえさせたパイプに棒を投げて落とす遊戯。転じて不当な攻撃の的)なのだ。それであるから、中国は日本がどんなに賠償金を支払っても謝罪してもどこまでも許しはせず、口実を作って責め立てるのは明白である。中国が東シナ海という呼称がいやだからと言えば、それを改称するのか。歴史教科書は捏造であるから不快だと言えば、中国の都合のいいように書き変えるのか。チベット人の虐殺を明るみにするなと言われれば、唯々諾々と従うのか。北朝鮮が日本が拉致問題についていつまでも拘泥するのは不快だと言えば、追求するのをやめるのか。雁屋氏のアジア史に対する見解は単純で楽天的であるが、歴史観と人道主義が結びつくほど恐ろしいものはない。

往復12キロのランニング 平成29年6月  2017/6/17(土) 午前 8:36

本町のビジネス街を出発して大坂城を一周、往復12キロのランニング。今までの10キロランの最高タイムが51分。一流アスリートならこれを35分前後で走る。今の私の悲願は10キロを49分台で走ること。1年半走ってもまだ達成できていない。
街中を走ることのデメリットは、いちいち信号で止まるのでストレスがたまる。初めてフルマラソンを走ったときはこのストレスがなかったので開放感があった。
メリットは、街の変貌に気づくこと。本町通りと堺筋の交差点に瀟洒なビルが建築中で気になっていたが、今朝見たら安藤忠雄建築事務所の施工だった。
ランニングは自分との孤独な戦いだという。思えば子どもの頃から一人でいるのが苦にならなかった。本を読んでいたら一人でも平気だった。ランニングは自分に合っているらしい。

親子の写真 平成29年6月  2017/6/17(土) 午後 11:21





吉野家 平成29年6月  2017/6/19(月) 午後 9:49


昨日近所でリニューアルオープンした新しいスタイルの「吉野家」、いわゆる黒吉野家。都内では秋葉原、恵比寿にあるが市内では第一号店。カフェのような内装で、メニューも様々な定食があり、ケーキが100円、おかわり自由のドリンクバーは150円だそうだ。オサレな吉野家って、まるで形容矛盾だが。道路を挟んだ向かい側には今月「セブンイレブン」がオープンしたばかり。この店内がだだっ広い。商品をギッチリ詰めていてもまだ余分なスペースがあり、イートインは40席くらいある。長らく凍結されていた新大阪と関空を結ぶなにわ筋線の着工が決まり(完成予定は14年後)、中之島と難波との中継駅の西本町駅(仮称)がこの交差点になるが、それを見越してのことか。
中央大通となにわ筋の交差点。




最後のニホンオオカミと呼ばれた黒澤浩樹 平成29年6月  2017/6/23(金) 午後 9:40

極真空手史上最強といわれ、格闘マシーン、最後のニホンオオカミと呼ばれた黒澤浩樹。
彼のことを二度だけ間近で見たことがある。平成3年、大阪府立体育館で行われた全日本ウエイト制大会で私はスタッフとして試合場の下で待機していた。黒澤伝説として今でも語りつがれる七戸選手との試合。相手の上段蹴りをさばいた黒澤は、道着に薬指を引っかけ、開放骨折してしまう。しかし彼は折れた指のまま平然と最後まで闘った。観客が異変に気づいたのは試合後だった。彼は医師の指示で試合場の下で寝かせられ、看護士が骨折した指に消毒液を振りかけた。その瞬間苦悶の表情で足をバタつかせたが、苦痛の声は一切あげなかった。その光景は今でもはっきりと覚えている。黒澤は用意された担架を拒否し、歩いて引き上げていった。
二度目は青山葬儀場での大山総裁の告別式の時だった。喪服に身を包んだ黒澤は凄まじい殺気を放っていた。このような殺気を発する人間がこの世に存在するのか、という畏敬の思いはいまだに忘れることができない。



執筆したキッカケ 平成29年6月  2017/6/24(土) 午後 10:09 

実は昨日「新潮45」を拝読し、感銘を受け、様々な思いが去来して拙文の投稿に至りました。

「誰よりも優しく、いつも他人の顔色を気にしながら、人を信じ、疑うことを知らなかった。」

この一節には先生の万感の思いが込められているように感じました。

ご著書の件、大変嬉しく思います。一生の宝物にしたいと思います。


米メキシコ国境が数分間だけ開放、移民たちが親族と再会 Hundreds hug as US-Mexico border opens for few minutes  2017/6/26(月) 午後 11:00

管理人マーキュリーマークの連絡
動画の利用が行えなくなったので題名のみの転載とさせていただきます)

フィリピン南部、8時間の戦闘停止後に再開 民間人の救助も Philippines: civilians rescued from conflict zone in Marawi 
2017/6/26(月) 午後 11:03

ベランダ 平成29年6月  2017/6/28(水) 午前 9:29 


— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年6月28日 ">

ベランダで涼む。
高田延彦の半生記「泣き虫」を読みながら。

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回顧を兼ねた書評 令和二年三月


僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


ランニングについての投稿




ランニング(特に早朝)をすると
眠気がふっ飛ぶ
血液が循環する
走っている時は悩みを忘れる
デトックスになる
街中の新しい発見
脳から快感物質が出る
一日爽快感が続く
大阪城公園〜坐摩(いかすり)神社の紫陽花