2019年7月7日日曜日

平成29年8月のyahooブログ上の投稿

昆虫採集セット 平成29年8月  2017/8/2(水) 午後 10:44

実家は文房具店兼プラモデル店だった。小学生の時に殺虫剤と防腐剤と注射器等が入った昆虫採集セットを売っていた。中身はメタノールの水溶液。カブト虫はもったいなくて標本にはできなかったけど、セミを捕まえて注射した覚えがある。
昭和の時代に注射針で事故があり、ほどなくして生産中止になった。
今では考えられないけど、結構デンジャラスな物を売ってたなあ。夏が来るとあの毒々しい色を思い出す。

「キネマの神様」の書評 平成29年8月  2017/8/4(金) 午後 11:25


ギャンブル中毒の80歳の父、しかし彼は無類の映画好きだった。ある日ひょんなことから映画ブログを始めることになった。
その第一弾「フィールド.オブ.ドリームス」の評論に対して、アメリカからローズ.バッドという人物の反論が来る。一体この人物は何者なのか。映画を通じて得た友情、はたして人生最良の映画とは(私もこの映画は大好きだ)。そして本書「キネマの神様」のサブタイトル「The name above the title」(題名より先にくる名前)の意味とは。
相変わらずうまいなあ、原田マハ。じんと来て、読み終わったあとはいい映画を観たような気になる。これは壊れかけた家族を救う「映画の神様」の物語。

【あるある?】 平成29年8月  2017/8/8(火) 午後 11:52

【あるある?】
高校の時にロックに狂っていたやつがいた。その男はちょっと変わっていて、ミュージシャンになりたい!ではなく、山本安見のような訳詞家になりたい!と言っていた。授業中はノートにロックの歌詞をシコシコと訳していた。ある時そいつはそのノートを自慢気に見せてくれたのだが、「come on,baby!」の訳詞が「おいで、赤ちゃん!」と書かれていた。
私は「悪いことは言わん!訳詞家はあきらめろおお〜〜」とアドバイスしたのだが、結局その男は家業の電器店を継いだのだった。めでたし、めでたし。

鳥取県は東西に長く、鳥取市と米子市間は93キロ 
平成29年8月  2017/8/12(土) 午前 10:45

鳥取県は東西に長く、鳥取市と米子市間は93キロある。米子市と隣りの島根県松江市とは親近感があるが、同じ鳥取県内でも鳥取市とは親和性をあまり感じられなく、京都府くらいの距離感覚がある(個人的な感想です)。
明治まで東部と西部は因幡と伯耆に分かれていて、同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いために雲伯という地域区分があるくらいだ。5年に一度の国勢調査(2015年実施)によると、米子市の人口は14万9千人、日本各市における人口順位は814都市中、184番目である。
米子市出身の著名人には格闘家とか格闘経験者が多いような気がする。
K-1王者の武尊、猪崎かずみ(元プロボクサー。最年長女子プロボクサーとしてギネスブック2011年からの記録保持者)、女優の山本舞香(小学生から空手をやっており、県大会で優勝)、直木賞作家の桜庭一樹(極真空手有段者)などなど。
メキシコ国境の壁 トランプ米大統領は公約守れるか  2017/8/16(水) 午後 10:11


貧困とは何か? 平成29年8月  2017/8/24(木) 午後 10:26

— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年8月24日 ">

「物乞う仏陀」
石井光太
例えばコルカタやデリーやムンバイに行けば失明した両腕のない、両脚のない乞食に苦労せずに遭遇するだろう。アジアの底辺を取材した著者の労作。
こんなことが現実社会で起きているのか?捏造か創作ではないかと怪しむ人もいるかもしれない。いや、事実である。衝撃のルポルタージュだ。このような世界が紛れなく存在するのである。


「家族の勝手でしょ!」
岩村暢子
もう一冊は前代未聞の食卓の考現学。これはれっきとした先進国の日本の日常である。お菓子だけの朝食。具のないインスタントラーメン、やきそば、レトルトの夕食。食卓に置いた菓子パンなどをそれぞれ好きな時につまんでいく餌場。栄養学など考えない無知な主婦。崩壊する家族。これはごく一部の家庭だと思うかもしれないが、調査のサンプル数は、この種の超定性調査としては、膨大かつ充分なものだ。
発展途上国とは違った先進国の、それゆえ余計に寒々しい日本の貧困である。


インド旅行記(前編)  2017/8/24(木) 午後 11:40





#25 インド編その1  (リターンズ)
at 2003 11/14 23:44 | Weblog
人間は二種類に分類される、とは巷間よく言われることである。古典的なものでは猫的人間か犬的人間か、流動型か土着型か、果ては野球に熱中する人間かそうでないか、ドアーズを聴いたことのある人間かそうでないか、その伝でいけばこう言えるかもしれない。この世は二種類の人間しかいない。インドに行ったことのある人間とそうでない人間と。私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。――
 なんてね、オレは沢木耕太郎かってえの。このようにインドとなると人はテツガクしてしまうのである。私がインドに旅立った(そんなに大袈裟なもんじゃないけど)のは自分を変えたかったからだ。(まだ若かったんです。すいません) その頃の私は私生活で色々とあって、その打開策を旅に求めたんである。旅に出て、人間をひと回りでかくして日本に戻ってくるぞっ! そのためにはやはりインドだっ! と、かようなことを考えていました。(あの、旅行は一週間だけです。大馬鹿野郎です、私は。生きててすみません)
 といういうわけでエア・インディアで成田を飛び立ち、私は機上の人となった。(まだかっこつけてる) 機内食とサリー姿の太めで愛想の悪いスッチーにうんざりし始めた頃、ようやくカルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港(現在はチャンドラ・ボース空港と改名)に着いた。ちなみにダムダムというのは地名である。殺傷力が高く、残酷なので使用を禁止されたダムダム弾はここの造兵廠で製造されたそうだ。
 夜の7時。タラップを降りると、いきなり暑い。じっとしていても汗が吹き出てくる。しかも硝煙というか、焼けたゴムというか、ともかくそんな臭いがする。しかも空港警備員は小銃を持っている。(帰ろう......かな? と少しだけ思いました) 空港ビル内に入ると、国際空港だとは思えないほど薄暗い。空調なんぞはもちろんなく、天井に三枚羽の扇風機がゆったりとハエを追うように回ってるだけ。それにしてもあっちいーな。なんか飲みたい。           
 「Drinking water」と書かれたプレートが目についたので近寄ってみると、そこには公園にあるような噴水式の蛇口(下から口に向かって噴水する、あれね)がぽつんとあった。なにもこんなもんに仰々しくプレートをつけんでも.......。いや、ここはインドだ。水道水が飲めるだけでもありがたいと思わんとな。入国審査と税関を終え、外に出ようとしたが、そこで足がピタリと止まった。なんと外にはインド人たちが押すな押すなと黒山の人だかり(インド人だからホントに黒い)で出てくる人間を待ち構えてるんである。それはなにも私が有名人なのでサインをもらおうとか、インドの地を初めて踏む日本人を熱列歓迎してやろうとかといった気持ちからでは決っしてない。やつらはタクシーやホテルの客引きである。全員が、俺はこの客引きに命を賭けてるんだ。なんてったって、家族の生活がかかってるからな。かあちゃん、待ってろよ。明日もチャパティ-を食わせてやっからな。そらっ! 金持ちの日本人が出てきやがった。今夜のカモはあいつだ。ぜってえ、逃がさねえぜ、なんて顔をしてるのだ。
 ひえ~っ! あいつらの中に出ていくんかいっ! 思わず「ブルース・リー 怒りの鉄拳」でブルース・リーが暴徒と化した群集や拳銃を構えた警官隊に走り出て、飛び蹴りをかますラストシーンが浮かんだね。(おいっ! おもいっきり美化してないか?) 
 しかし、ここで回れ右をして帰国してしまっては、末代までの恥だし、航空券が無駄になる。よしっ、待ってろよ、インド人! サムライ魂をみせてやるわあ~っ! と、ここで私は、はたと気づいた。興奮してたんで忘れてたけど、旅行会社で今夜のホテルは予約してたんだ。そのホテルから車が迎えに来てるはずだ。そうだった、そうだった。それならいくら客引きが寄ってこようと恐くはない。私は余裕の表情で空港の外に出た。
 「ナマステ~、インドのみなさん、アイ・ケイム・フロム・ジャパ~ン」 がっ、! 
 「ジャパニ! ジャパニ!」 「タクシー! チープ! チープ!」 「ホテル? カム! カム!」 「グッドプライス!!」 「ベリーチープ!!」 ぎゃあ~! うげえ~っ! 「#$%&♀¥!!」
 うるさいわいっ! 私はフランスに凱旋帰国したトルシエ監督なみにもみくちゃにされた。(トルシエって、確かフランスだったよな。サッカーに無知なので事実誤認があったら許せ、サッカーファン)
 ホテルから迎えに来たらしき人が声をかけてきた。 「エクスキューズ・ミ-、ア-・ユー・ミスター・ナガノ?」 「イエス! イエス! イエース!!」 私はヘビメタのヘッドバンキングのように激しくうなずいた。
 「すみません、ちょっとここで待っててください」 そう言うと迎えの人はどこかへ行ってしまった。間髪を入れず、そこへ別のインド人が現われて、「グレート・イースタン・ホテル(今晩予約していたホテル)なら、こっちだ」と先に立って案内する。思わずふらふらとついていったが、途中で何か変だなと立ち止まった。すると、さっきの迎えの人が追いかけてきて、「ノー! ノー!」と私を連れ戻したのだった。あぶねえっ、ちっとも油断がならねえな、インド人!! (つづく)

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 1961年生まれのドリアン長野が26歳の時の海外旅行記です。言い換えると、1987年(昭和62年)のある日、インドに旅行してきたのでドリアン長野にとって半ば唯一の昭和の海外旅行記になるようです。
 改めて、日本はとりあえず法治国家なのかと思えてしまいますね。実際には、そうでもない時もあります。本当にインド人に私は日本からやってきたと発言したから、インド人にだまされそうになったみたいです。
 平成十年代に日本代表のサッカーチームを指揮していたトルシエ氏は、平成22年にテレビコマーシャルに出演されたから健在ぶりをアピールしていましたから、人々の記憶に新しいと思います。(それも平成29年現在となっては6年以上前だから随分前か?)
 空港名(ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港 略称 CCU )は現在、変更されているそうです。 人によっては、旧名を発言してしまう人もいるかもしれませんね。 インド旅行は、基本的に暑いといったお話を耳にします。今回もそういった内容です。一方でインドでも北部や標高の高い山間部(世界で最も標高が高い地域のヒマラヤ山脈等)はとても寒いそうです。日本国内でも沖縄県と北海道では全く天候が違います。それと、同様ですね。
 今回の海外旅行記のインド第3の都市コルカタは、どちらかというと北インドの影響が強い地域でインド東部(西ベンガル州)の海に面している暑い町のようです。国の天候に限っては、町によって変わってくるから決め付けるのではなくて、国内の複数の町において、暑いと寒いが混在しているといった考えを持たないといけないと考える所存です。
 過去に複雑な出来事があったから東部であっても西ベンガル州になったそうです。言い換えると、東側のベンガル州は現在のバングラデッシュになっています。「インド東部であっても西ベンガル州で正しい。」と認識する事が求められています。1905年には東ベンガルは存在していた。後に戦乱の影響で現在のバングラデシュになりました。戦乱は人々の絆や町ばかりか国家をも引き裂く。西ベンガル州はインドで東側がバングラディシュなんです。
 この海外旅行記をを読んだ事もあって、私が実際にバンクーバー国際空港(YVR)に到着した時にホテルへの送迎バスの内の送り担当の運転手を見た時は若干、緊張してました。カナダとインドは両国共に英連邦だが大違いでした。そういえば、カナダの第3の都市圏人口はメトロバンクーバーらしい。待っていた人が少なかったのと在外邦人さんがやってきてたので私は冷静に行動出来ました。困ったのは他の路線でやってくる日本人観光客達がやってくる迄待機させられたことでした。インドでもカナダでも送迎バスの送りの時は待機させられるのか?
空港連絡鉄道(トランスリンクのカナダライン)が円滑に利用出来るから次回の利用は少し考えますね。実際に乗車したから言えますが、カナダラインは運行されている本数は多かったです。CCUも空港連絡鉄道が利用出来るそうですが運行されている本数は少ないそうです。詳細は各自でお調べ下さい。
 議論するよりも、冷静に空港からホテルに移動したいのが本音です。なぜならば、海外旅行の場合は時差ボケでとても苦しんでる状態で入国手続きを済ませた後で空港を離れる人は多いです。例外は時差の大差が無い国への移動のみか?半ば余談かもしれませんが、全く逆に私がカナダから日本への帰路の時に限っては運転手に「パスポートはお持ちですか?」と質問されて黙ってパスポートの顔写真を迎えに来た運転手に見せました。千の言葉よりも一の実行。但し、約束の時間はお互いに守ったが元々の会う時間が少しばかり遅めで帰国便に着席したのはおよそ40分前であったが及第点を取れてると考えるか否かは人によって意見が分かれるか?
 冒頭の「人間は二種類に分類される。」ですが海外旅行に一回でも行ったかどうかで十分でインドにこだわる必要は皆無だと思います。海外旅行に行かなくても健康で文化的な生活が行えると考える日本人は多いであろう。皆さんでお考え下さい。
 誤解の内容にしておきますがCCU (Coronary Care Unit)は 冠疾患集中治療室の略称だと考える人は多いかもしれませんがインドで有名なネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港の略称もCCUで同じ位に有名かもしれません。




ちなみに色々とあっての謎解きですが、ご本人が平成28年4月二日において実質的に発表されましたので以下を読んでください。
題名 ドリアンという名前を 僕にもくれないか
「そうか やっぱり君はくだものの魔王だ
僕にも君の その炎熱の魔力を分けてくれ
ドリアンという名前を 僕にもくれないか」
小学生のときに読んだ「空手バカ一代」
中学生のときに知ったブルース・リー
高校生のときに聴いたセックス・ピストルズ
人生にはいくつかの転機というものがある
四度目というべき黒船襲来は30代のときだった
いや、27歳のときにインドから帰ってきたら告白しようと考えていた女性に結婚するのと電話口で告げられ失意の中で旅したコルカタ、デリー、バナラシー行きもその中に入るかもしれないが、少しカテゴリーから外れる
ともかく、強烈だった
心臓を鷲掴みにされるという強烈な読書体験を初めて知った
作者が失意の中で旅したテレジン
子どもたちばかりを集めたナチスの収容所
明日ガス室に送られるかもしれない子どもたちが残した絵を見て激しい感情に揺さぶられる
「彼らが収容された時には、彼らの両親もまたナチスによって連行されたに違いない。彼らは両親の運命も知りながら、救いようがない絶望の中でこれらの絵や日記を残したのだ。
僕は知らなかったのだ
殺された子供たちの魂が、実は僕の魂であり、あなたの魂であることを。
あなたはなぜあなた自身をあきらめるのですか?
あなたはなぜあなたらしく生きようとしないのですか?
ぼくたちのことを あなたの言葉で伝えてよ。
ぼくたちのことを あなたの歌で伝えてよ。」
作者は演劇やパティ・スミスなどのポエトリーリーディングに影響を受けた、音楽に載せて詩を朗読、あるいは叫ぶという全く新しい分野のパンクバンド「叫ぶ詩人の会」を結成する
「気でも狂ったのかと言われたのよ
だから狂ったと答えたの
タクシードライバーのデ・ニーロのように
人を殺しに行くのかって言われたのよ
だから答えたの
殺しはしません
抱くのです
叫んで 歌って 抱くのです」
彼らのCDを聴く度に滂沱の涙が止まらなかった
失意の中でもがき苦しんでいた自分と重なり合う部分もあった
彼らのコンサートにも何度か足を運んだが、それは今まで体験したことがなかった奇妙なライブだった
観客は熱狂することもなく、踊り出すこともなく、いや踊り出そうにもリズムに乗ることが不可能なのだ
身じろぎもせず、ただステージを見つめている
しかし感情を外に出すのではないが、彼らの放出するあまたの言葉によって内面は激しい感情を喚起される、少なくとも自分がそうだった
人は人によって殺される
人は言葉によって救われる
ずっとパンクを聴いてきた劣等感まみれの自分自身の心情である
「僕らは知っているのだ
広大無形なこの廃墟からも
いつの日か命が生まれることを
希望が生まれることを
虹彩の奇跡が生まれることを
湾岸線に陽は昇る」


#26 インド編その2 (リターンズ)
2012-01-01 | Weblog
#26 インド編その2

 「グレート・イースタンホテル」の大理石のバスタブにつかりながら私は考えていた。 
 「カルカッタくんだりまでやって来て、こうやって高級ホテルの風呂にのうのうと入っている場合か。インド8億の民衆の生活を知るためには、やっぱり安くて汚いゲストハウスに泊まって貧しさを肌で感じなければ。民草の中に入っていくのだ。カースト反対! ガンジー万歳!」
 お前は民青かっ! と思わず突っ込みを入れたくなるほどの勘違い野郎だ。あえてゲストハウスに泊まる理由があるとすれば、お金を倹約したいとか、居心地がいいとか、貧乏の疑似体験をしてみたい等であって、民衆の生活なんぞ分かるはずもない。 「それはお前の自己満足やろが~っ!」と今の私なら当時の私に回し蹴りをかますところだ。
 とにもかくにも翌朝、私はサダル・ストリートに行こうとホテルを出た。インドの中でも最も汚いといわれるカルカッタ。そのカルカッタで最も汚いといわれるのがサダル・ストリートだ。ってことは宇宙で一番汚い場所だ。その界隈にはありとあらゆる病原菌が生息しているという。そこに安宿が密集しているのだ。白人バックパッカーに道を尋ねながら歩いていると、老婆やら子供を抱いたお母さんやらが「バクシーシ(おめぐみを)」と右手を差し出してくるのだが、ギョッとなることもしばしば。指がニ本か三本欠けている。五本ともない人も。ハンセン病だ。あきらかに顔が変型している人もいた。ううっと重苦しい気分になって先を急ぐ。
 バックパッカーの間ではその名を知らぬ者はおらず、小説にまでになった「ホテル・パラゴン」に泊まろうと思い、リキシャーワーラー(人力車のようにうしろに人を乗せ、自転車でこいでゆく乗り物がリキシャーであり、それをこぐ人)に場所を聞く。すると横にいた客引きの兄ちゃんに「パラゴンは満室だ。俺の知ってるホテルに案内してやる」と紹介されたのが「キャピタル・ゲストハウス」(一泊60ルピー。当時のレートで1ルピー≒12円とお考えになれば大体の目安となるでしょう)だった。実は、客引きがそこは満室だと嘘をついて自分と契約をしたホテルに連れていき、キックバックを得るのはよくあることだったが、当時の私には知る由もなかった。
 生まれて始めて泊まったゲストハウス、キャピタルは冷房なし、トイレとシャワー(水)付き、ベッドのシーツは少なくとも一か月は換えた形跡なしであったが、別に不自由は感じなかった。もう1ランク下がると、トイレとシャワー(水)共同、シーツは少なくとも半年間は換えた形跡なし(南京虫付き)になる。
 宇宙で一番汚いサダルは小便横丁という表現がピッタリくる。あっちこっちがぬかるんでいて、あっちこっちにウンコが落ちている。サダルにいるのはビンボー旅行者と物売りと乞食と詐欺師と泥棒と野良犬だ。乞食とそうでない人の境界はきわめて曖昧で、排水溝で体を洗っている人もいれば、道端で寝ている人もたくさんいる。この通りにいれば、いろんな人にやたらと声をかけられる。
 「ジャパニ、○リファ○いらないか? ○シ○は?」 「マネー・チェンジしないか? レートがいいぞ、フレンド」「パージャーマー買わないか? 安くしとく。フレンド・プライスだ」 「マイ・フレンド、お土産にサリーはどうだ?」
 おいっ、会ったばかりで名前も知らんのにフレンドたあ、どういう了見でえっ。そう、インドでは友だちになるのに時間は必要ないのだ。友だちができないと悩んでる君、インドに行って、友だちをつくろう! 友だちに国境は関係ないのさっ。さあ、君も今すぐレッツ・ゴー・トゥー・インディア!
 「ハロー、ジャパニ。インドは初めてか? どこから来た? トーキョー? オーサカ? 俺も日本には仕事で行ったことがある。ヤマモトを知ってるか? 俺の親友だ。何、知らないのか。まあいい。ところで俺の知り合いが店をやってるんだが、寄っていかないか? お前はトモダチだから特別に安くしてやるよ。お金持ってないって? ノー・プロブレム。見るだけ。見るだけならノー・マネーだ。オーケー? こっちだ。ついてこい」 
 私もインド滞在中に何回も同じことを言われた(違うのはヤマモトがタナカになったり、ケイコになったりするだけだ)。こうして大阪商人も顔負けの狡猾さでうぶな旅行者を店に引っ張り込み、適性価格の何十倍もの値段をふっかけ、最後にはケツの毛までむしり取ってしまうのだ。ああ、恐ろしや、インド人。
 私の経験では、アジアでの物売りと物乞いのしつこさランキング第一位はやはりインド人だ。断っても無視しても、どこまでもどこまでもどこまでもついてくる(いやな男にナンパされる女の気分か?)。後年、タイやネパールやカンボジアに行った時、物売りや物乞いのあまりの淡白さに「もっと気合い入れて仕事せんか~いっ!」と思っちゃったほどだす。(つづく)

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 海外のホテルでお風呂に入るのは自由ですが排水口が浴槽内に一つだけの可能性が高いです。万が一、浴槽からお水を溢れさせて室内の絨毯を水浸しにすると高値の掃除代金が請求されるので皆様、お気を付けください。そういうこともあって、海外旅行保険の加入が推奨されてる。私はホテルのシャワーだけで毎日済ませてました。海外にも温泉施設が営業されてると言われてるからどうしてもお湯につかりたければ海外の温泉にでも行かれてはどうでしょうか?

 インドは、現在(平成28年の時点において)は13億人を越える人口を抱える国家としても有名です。 核兵器を保有しているインド。 将来的にインドは核戦争を戦うのであろうか? 
 やはり、強要という罪が存在してるかどうかが法治国家の境目かもしれません。外貨の両替については日本国内である程度済ませてから海外に行かれてはどうでしょうか?私がブリティッシュコロンビア州に行った時はそうしました。だけど、ATMは利用してしまった。日本国内で外貨を持つことは違法ではないが外貨での支払いは違法になる恐れがあるので気を付けてください。バンクーバーのロブソン通りに行った時に店舗を構えた両替商はいたし声掛け商法をしてる化粧品店のお店があったがそんなにはしつこくなかったです。しつこかったのは日本に住んでるストーカーでフェイスブックを通じて何度も詰問してきたから日本に帰国後、頭をスッキリさせて冷静になってダメ出しをしてブロックしました。それと同時に良き友人達に被害状況を伝え納得してもらいました。抗議しても逆上されました。
 病気についても深刻な状況です。一説によると多剤性耐性結核菌がインドでは猛威を振るっているとも言われています。単純に日本と違って販売の規制が緩いと言われている抗生物質の使いすぎだけではなくて、治療の仕方に問題がある患者が多いからだそうです。日本でも治療の途中で放棄をする患者が多くいるそうです。不況の影響で、8割程直った元重病人ないしは重傷だった患者が医療費を踏み倒す為に病院から逃亡する事例は少なくないと言われています。 こういった行動は治療費の踏み倒しだけが問題ではなくて、病原菌を拡散させる行為なので辞めていただきたいのが本音です。 
 国内産業の保護につながるか否かは不明ですが、スズキ自動車がインドでの商売で成果をあげているようです。インド人が理不尽な要求をしてきた時には否定を躊躇しなかったのが成功した要因だったようです。実際の所、日本国内の工場との競争がございます。従って会社内の海外工場とはそういったやり取りが必ず発生します。昨今のような状況ですと日本の工場からだけではなくて将来的にはインド製の自動車も日本国内で一般的に販売される可能性は否定が行えません。元々は、為替差損対策で海外工場が作られましたが今後は少子化対策になるかもしれません。
 今までは単純なお笑いエッセイでしたが、インド編については全く笑えないお話が幾つも平成十年代に発表されました。そして、2010年代になって再発表しています。 
確かに是非は大別されるかもしれませんがカレーライスの原材料の香辛料ばかりかアパレル商品もインド製が増加して日本で販売されるようになってきました。
こういった海外旅行記を読むことで日本の長所を再認識された人々も多いと考えます。海外のホテルと日本のホテルを比較してしまう人は多いと思います。結局は海外のホテルと日本のホテルは食事は良かったから両者共に良かったとしても、金額が海外のホテルは高値であったしそこそこ良いホテルに行っても日本のビジネスホテルの方が良かったと考える日本人は多いと思います。理由は前述したお風呂等も含めます。ベッドが柔らかすぎて熟睡が難しかったです。又、海外においては日本人観光客が無礼者になる前例を何度か私は見てきました。日本国内であれば無礼者が早期に糾弾されるが海外ではそうではないと考えてるなら、それは間違いだと言い切れます。それら以外は皆さんの予想にお任せします。

 平成20年代になって幾分、経済が良くなったかもしれないインドですが、恐ろしいお話については、以下でお伝えします。






#27 インド編その3 (リターンズ)
2012-02-01 | Weblog
#27 インド編その3

at 2003 11/28 21:37 編集

インドはいうまでもなく暑い。めったやたらと暑い。気温は、少なくとも香港風邪にかかって病院のベッドでうんうんうなっている重病人の体温よりは高いのは間違いない。歩いていると熱風に包まれたようになって息が苦しいし、脳みそが沸騰してくるので難しいことは理解できなくなってくる。そんな炎天下で男はクルターとパージャーマーの上下、腰巻風のドーティーやルンギーといった服装が多いが、女はどこへ行ってもどんな時でもひたすらサリーだ。道路工事や建築現場でも男に混じってサリー姿の女が土の入ったざるを頭の上に載せて運んだり、レンガを積んだり、ツルハシで穴を掘ったりしている。労働するからちょっとTシャツとスパッツに着替えてくる、というわけにはならないのだ。インド初の地下鉄がカルカッタで一部開通したが、地下鉄工事中も機械を導入する資金がないのでサリー姿の女性を含む人夫たちが手作業で労働に従事していたそうだ。他の国からはあの調子では開通するまでに100年はかかると言われていたぐらいである。そのありがたい地下鉄に私も乗ってみることにした。全線1ルピー。電車内は信じられないことに冷房が入っている。冷房ぐらいは当たり前かもしれないが、ここはカルカッタである。天井で回っている三枚羽の扇風機でもおかしくなかったのに。快適。喧噪と灼熱地獄の地上とは別世界だ。その地上へと昇っていくエスカレーターの前では男の子の手を握ったお父さんが必死になっていた。小さい頃、初めてエスカレーターに乗ろうとした時を誰もが覚えているだろう。動くステップに一歩を踏み出すのはなかなか難しいんである。お父さんが恐る恐る足を出す。タイミングが合わなくてつんのめりそうになる。もう一度足を出そうとするが、次々とせり出してくるステップが恐くて躊躇する。その横では奥さんが「あなた、がんばって」という顔つきで見守っている。そのうしろでは大勢のインド人が「落ち着けよ、あせるなんじゃないぞ。それっ、今だ」というような面持ちで真剣にお父さんを見つめている。小さな子供ならいざしらず、大の男が必死になっているのが笑える。インド人にとっては初めての経験だもんなあ。それはインド人のしつこさに辟易していた私にとって、今思い出しても頬のあたりが「むふふ」とゆるんでくる唯一の光景だった。
 終点で降り、カーリーガート寺院内にあるマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」に行く。友人から言付かった医薬品をシスターに渡し、布に包まれた遺体をみんなで運んだ。帰りにカルカッタのメイン・ストリート、チョーロンギー通りを歩く。ここは世界一の人口過密都市と呼ばれるカルカッタにおいてもさらに人の行き来が激しい。夜になると明かりが少ないので、気をつけてないと人とぶつかるのはもちろん、往来に寝ている乞食を踏んづけてしまうこともある。その日もスリに注意しながら歩いていたのだが、いきなり、という感じで通りのまん中に10歳くらいの少年が寝ているのを見つけた。通行人はその少年をじろじろ眺めたり、一瞥しながら通り過ぎて行く。少年には両腕がなかった。上着を着ておらず、本来なら腕の付け根がある場所に赤黒いケロイドの皮膚が少し盛り上がっていた。少年は怒りも恥ずかしさも悲しみも感じさせない無表情な眼でただ空を見ていた。彼は一日中そうやって寝ているのだろう。しばらく見ていたが、彼にパイサやルピーを投げ与える者はいなかった。日本に帰ってから知ったのだが、本当に貧しい親は子供を不具にしてしまうそうだ。そうすれば子供は物乞いとして生きていくことができる。その少年がそうなのかは分からないが、私はやり切れない気分だった。
 人間はどんな環境においても順応していける動物だと私は思う。単純に貧しいから不幸だとか、豊かだから幸福だとかを言うことはできない。先進国にも苦しんで自ら命を断つ人はもちろんたくさんいるし、後進国から先進国の人間を見て、自分にはとてもじゃないがあんな生活はできないと思うこともあるだろう。幸福感というのは主観的なものなので、インド人が皆不幸であると思い込むことは先進国の人間が皆幸福であると思うのと同じくらい愚かなことだ。確かにインドは限り無く貧しいし、不衛生で識字率も低い。障害者も多いし、今もカーストやサティーやダウリー(注)という文化が存在している。悲惨だと言う人もいるだろう。しかし、同カースト内では相互扶助的に生活しているという例もあるし、サティーに至っては自ら進んで殉死する寡婦もいる。まるで藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」だ。それはパラダイムの見直しであり、「人権」というタームでは火の中に身を投じる寡婦を止めることはできない。我々の文化で彼らの文化を計ることはできないし、かといって全ての文化は等価だと言うこともできない。けれど少なくとも、もし、今度生まれ変わるとしたらインドと日本とどちらがいいかとインド人に聞いたら、ほとんどが日本だと答えるんじゃないか(今の私だったら必ずしもそうだとは思わない。その時代のその国に生まれて後天的に形成された言葉をも含む共通の価値観はそう簡単には越えられないからだ。日本人がアメリカに生まれたい、と思うこととは違う)。私はインド滞在中、ずっとそんなことばかり考えていた、っていうか考えられずにはいられなかった。それほどまでに当時の私にとって、インドはカルチャー・ショックだった。(つづく)
注 サティー 夫に先立たれた妻が夫の遺体と共に生きながら火葬される習慣。法律では禁止されたが、なくなったわけではない。
  ダウリー 花嫁の父から花婿に贈られる財産や持参金。ダウリーが少ないために姑に嫁が殺されたり、親の負担を案じて自殺した姉妹もいる。なお、カーストはポルトガル語、ダウリーは英語から来ており、それらを表わす言葉自体インド語には存在しない。

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 内容が内容だけに幾つかの伝達が存在してます。インド国内は日本国内と同様に北海道の気候と沖縄県の気候が全く違うように極寒のヒマラヤに近い北部の標高が高い山々と赤道に近接しているスリランカに近い南部とは全く気候が違います。どちらかと言うと、今回はインドでも熱い町のカルカッタの海外旅行記です。
 昭和60年代のインドでは、エスカレーターに不慣れな大人がいたようです。 地下鉄が出来たのはそれだけ街が経済発展した証拠です。日本でも地下鉄の建設が行われた昭和の一時期には手堀が行われていたそうです。
エスカレーターに不慣れなインド人は階段は慣れておられたのでしょうか?階段は1970年代から利用されてたかもしれません。建物内で階段とエスカレーターの両者が利用出来る場所を見ると、つい連想する。
 自分の手で歯磨きも食事も行えなくなった10歳のとてもかわいそうな少年には再生医療が必要であるばかりか彼の両親には制裁が必要です。日本人の両親は一生懸命になって仕事をしている。無論、専業主婦の奥さんもおられます。日本国内における平成の親御さんは不景気でとても辛い思いをされています。中にはちゃんとした説明もなしに生活費を請求しようとする人もいて対応が出来ません。残念ながら一部、ロクな説明もなしに寡婦に対して経済的な援助を事実上求めてくるがゆえに、人の良心につけこむような人も日本にはいて大変困った事がありました。迷惑をかけてきた後だったから気分を害したので彼等に対しては自己責任で生活してもらいたいし他の寡婦が真面目に労働してる点を軽んじてるみたいで嫌悪しました。乏しい家庭であれば少しは考慮しますが乏しくないから説明を拒否したと思います。彼等一家は毎日ステーキでも食べてるのでしょうか?責任を果たさずに金銭を要求されるのは強要のようで否定する点についてはやむを得ないのではないでしょうか? 一方で、ドリアン長野は真面目に労働し家族を養っておられます。
 幸福論については、各自でお考え下さい。経済発展が継続していてインド企業が鉄鋼の分野で世界一であったり英国の自動車会社を傘下に収めた話もあるにはあるがまだまだ苦労が継続するようです。近隣諸国との戦争が勃発する恐れの噂についても頻繁に見聞きします。日本とインドを比較して何が幸せなのかは、繰り返すようですが各自でお考え下さい。とても難しいです。 スズキ自動車もインドで苦労したから今のインド国内での成功があるんです。
これが、世界の現実かもしれません。観光客向けのお店に行ったりおいしい食事をしたり楽しいスポーツをしたりだけではなく、奉仕活動で海外に行く人もいるんです。皮肉ながら、日本からマザー・テレサハウスに行くための航空券の販売競争は厳しいみたいです。日本国内で困ってる人を助けることも重要だとは思います。海外旅行代理店同士の競争は激化してる。
 この旅行記を読むと、日本には日本なりの自由があると再認識しますね。教育は重要で責任を果たしたから得られる権利は存在するから「知識は力なり。」と言われてる。





#28 インド編 その4 (リターンズ)
2012-03-01 | Weblog
 インディア・エアラインでデリーにやって来た。空港から市内行きのバスに乗る。運転手と客のやり取りを聞いていたのだが、ヒンディー語だと思っていたのが英語だと判明するのに30分かかった。ちなみにインド英語の特徴は th をタと発音し、R をはっきりと発音する。だから thirty はターティーとなり、master はマスタルになる。
 その運転手にホテルを紹介してもらい、宿泊した翌朝のこと。起きると下痢と頭痛と悪寒とおまけに脚の関節まで痛い。これは赤痢かコレラか肝炎か。インドの地で客死したら骨はガンジス河にまいてくれ。後は頼む、って私は一人旅なので自分で何とかせんといかんのだ。食欲はないが、喉がやたらと渇くのでメイン・バザールでミックス・ジュースを飲む。路上のジュース・スタンドなのだがこれがものすご~くうまいのであっちこっちで10杯ほど飲み倒す。
 1月の北インドの朝は寒い。栄養不良のせいもあって毎年、路上生活者が凍死するほどだ。それでなくても寒気がするのでセーターを50ルピーで買う。もう値切る気力も残っとらん。それにしてもニューデリー駅前って敗戦直後の日本の焼跡地みたいだ。朝になるとみんなが路上の至る所で商売用か自炊のための火をおこし、わらわらと人や野良犬や野良牛が集まり始め、その人ごみの中をタクシーやリキシャーが縫うようにして通り抜けてゆく。道端では男たちが座り小便をしている(なぜかインドの男たちは座って用を足すのだ)。
 メイン・バザール(バハール・ガンジ)はその駅前にある、安宿や食堂や映画館や雑貨屋等が立ち並ぶ通りだ。今日の夕方にはベナレス行きの列車に乗らなければならないので、駅のクロークに荷物を預けてからうろうろしようと思っていたのだがっ。だっ、駄目だあ~。苦しい。もう一歩も動けん。このままでは死ぐ。ホテルで休ませてもらおうと日本人に人気の「ホテル・パヤール」に行き、「2、3時間やずまぜで~」と息も絶え絶えに頼むと心良く了承してくれた。「だけど一泊分の料金はもらうよ。30ルピー」と付け加えるのを忘れなかったが。 
 屋上の部屋に案内される。隣の部屋の中年の日本人はインド滞在2か月だそうで、パチパチとタイプライターを打っている。屋上のデッキチェアで昼寝をしに来た日本女性三人は「あの人(私のこと)、病気なんだって。私、薬持っていてあげよう」と話をしていた。私はベッドで苦しみながら期待して待っていたのだが、来なかった(おいっ)。
 しばらく横になった後、ホテルを出て駅に行く。預けていた荷物を引き取ろうとすると、クロークのおっちゃんが、「4時15分にならないとここはオープンしないよ」とぬかす。冗談じゃねえ。おれの持ってるチケットは10分発なんだよ。だから開けてくれ、開けろってんだよ。開けろ~っ! 頼む、開けてちょうだい。ね、少しだけだから。開けてくださいまし。開けてくれないと困っちゃう~。開けてったら開けてぇ~。ねえったら、ねえ~ってば~。とすごんだり、すかしたり、傍らのインド人も見かねて加勢してくれるのだが、おっちゃんは「駄目だ」の一点張り。普段は「いいかげん」を絵に描いて額に入れて壁に飾って一人50パイサでお金を取って鑑賞させるほどルーズなインド人がどうしたってんだ。結局、発車時刻を逃してしまった。しかし、インドの列車は10分、20分の遅れは定刻のうちで、平気で4、5時間遅れることはざらにあるとは後で知ったこと。この時も私の乗る列車がまだ到着してなかったことは充分考えられる。とにかくプラットホームに出て、そこら辺の人に次のべナレス行きの時間を聞いてみた。でも8時半だとか11時だとか1時とか人によって言うことが違う。窓口で聞こうにも大勢の人間が殺到していて、下痢と発熱で弱っている私にはそこへ突っ込んで行く気力はもはや残っていなかった。
 「インド、あんたの勝ちや」 私はへなへなとその場にうずくまった。「何でインドなんかに来てしまったんやろ~。もし生きて日本に帰ることができたら、今度はハワイに行くぞお」とわけの分からんことをうわ言のようにつぶやいている私に、「どうしたんだ?」と一人のおっちゃんが声をかけてきた。(つづく)   

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 このインド旅行記は周知のように2000年以前どころか昭和の旅行記です。
 やっぱり言葉の壁は大きいようです。ドリアン長野自身は英会話が行える人物ですがインドの英語は難しく感じたようです。
また、日本国内に居住していても普段から納豆やヨーグルトを食べて胃腸を健康に保つようにするべきだと思います。アレルギー性胃炎という恐ろしい病気も存在します。
 インド北部の寒い地域で下痢で苦しんだとしたらもしかするとノロウイルスかもしれませんね。文面から考えるに公の場でノロウイルスが拡散されている恐れがあります。
ミックスジュースですがバリューローソンで1リットル¥108でおいしいミックスジュースが販売されているので私はそれを買いたいですね。
 インドは、日本と同じ様に北部と南部で気候が全く違います。インド北部と言えば極寒で有名なヒマラヤ山脈が有名です。インド南部と言えばカシューナッツで有名なケーララ州(ケララ州とも言われてる)やスリランカよりのタミル・ナードゥ州が有名でとても暑い町であるのは想像に難くありません。
 インド人は公表している時刻表については守らないようですが、日本人の場合は時刻表を守ります。一方で日本人はかけ声倒れが好きというか提案だけで実行(今回は人助け)しない人も多くいます。カナダのスカイトレインは時刻表は無いが頻繁に電車がやってきた事を連想します。
 現在、インディラ・ガンディー国際空港(略称 DEL)では空港連絡鉄道が利用出来るようになってますので過去のようにバスを利用する人が多いか否かは不明です。一説によると料金前払いのプリペイドタクシーも存在するそうです。空港を後にしてから次にどういった行動を取るかについては日本にいる間に考えておく事を推奨します。
 この旅行記を読んで普段あまり使わないがたまに用いるお薬を持って海外旅行に行く人もおられたと思います。医者と相談して普段よりも多めに投薬してもらうことも重要で薬店で使えそうな薬を幾つか購入しておいても悪くないです。事実、私はそうしました。海外旅行保険も加入しましたけどもね。一日だけちょっと疲れた日があったがそれ以外は何とかなりました。
 私もバンクーバーを旅行中に同じ日本人観光客の一団に何度か会いました。その中に沖縄県から来られた日本人女性3人組でした。その時、私はスタンレーパークのバンクーバー水族館(略称 vanaqua バナクア)に行きたかったのでバス停近くで待っていたら彼女達がバナクアに行ってきたらしく感想を聞いたら「良かったですよ。」と教えてもらったので安堵しました。実際に行ってみたら本当に良かったです。日本人の感想は重要ですね。だけど、日本人がよくやる悪い行動の中の一つに掛け声倒れというか提案のみで実行しないのは良くないと思います。だから「千の言葉よりも一の実行。」と言われてる。1 practice better than 1000 words .
 そういえば、私はバンクーバーの在外邦人に助けてもらいました。とりあえず、お水を買っておかないと生活が成立しません。ノースバンクーバー市のロンズデール・キー港からバンクーバー市のウォーターフロント駅へ行く為のシーバス(船)に乗った時なんですが現地在住の日本人女性に出会いました。それで始めは適当な英語を喋ってましたが日本語を話すようになりました。お水を買うためにブリティッシュコロンビア州では有名な小売店のロンドンドラッグ迄案内してもらうことになりました。そして、バンクーバーシティセンター駅前で営業してるロンドンドラッグに案内してもらいました。彼女は仕事があるのでそこで離れました。私は一人旅の最中であったのでロンドンドラッグで無事にお水を買って一人でホテルに戻って熟睡しました。時差ボケは並の苦しみではありませんでした。海外旅行中に在外邦人(日本人女性)に助けてもらったどうかで旅の楽しみは大きく変わるかもしれません。ドリアン長野は日本人女性に助けてもらわなかったが、私は在外邦人の日本人女性に助けてもらいました。
 電車の運行に限っては前もってインターネットで調べておいても、運行してる会社がいい加減で遅延が多いとあまり信頼出来ないかもしれません。従って、ある程度の余裕を持って行動する事が重要です。日本と海外では大違いです。
 以下はホテルでの滞在に限定したお話です。ホテルによって経営方針は違いますので全てに該当するか否かは各自で調べてもらいたいですが、日本国内で前もって予約をする時に空港に到着する時間からホテルに到着する時間を鑑みて本来の入室の時間前に利用が行えるようになる予約をされるばかりか空港に出発する時間迄あえて退室を遅延させる予約をされる利用者もおられるようです。無論、単純にドリアン長野のようにホテルで休憩される人もいるようです。
 私の場合は、バンクーバー国際空港(YVR)からホテル迄、送ってもらうバスを予約したからか本来の入室時間よりも早めに入室しても一切問題がございませんでした。アーリーチェックイン(早期入室)が実質無料であったようなものです。
 実は、全く逆に空港から飛行機が出発する帰国便の時間の為にホテル内にてあえて遅延の滞在を選ぶ旅行者がおられるようなんです。ニューカレドニア旅行の時にそういった選択をされる観光客が多いらしいです。ホテル側も理解されてるからそれなりの提案をされてるようで決して寝過ごし等の迷惑行為ではない点は強調します。遅延の滞在も予約の対象になってると考えてもらえると幸いです。アーリーチェックイン(早期入室)やレイトチェックアウト(遅延退室)の詳細は各自でお調べください。

冒頭の画像ですがドリアン長野がインド国内で複数の町に行ってきたことから複数の町の位置が分かりやすい地図を紹介しました。 

ヤフーブログの文字数制限が2万文字なので前編と後編に分割させていただきます。
(補足説明 ヤフーブログは2019年12月にサービスを停止することからブロガー版に移転させてます)

紹介した幾つかの動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

ご存知の方にお聞きしたいのです 平成29年8月  2017/8/27(日) 午後 1:44



インド旅行記(後編)  2017/8/27(日) 午後 9:44







#29 インド編その5 (リターンズ)

 2003 12/12 22:38 
 事情を話すとおっちゃんは「べナレス行きの列車は今日はもうないから、チケットをキャンセルすればお金が戻ってくる」と言う。おっちゃんに連れられて案内所に行って聞いてみると「国際外国事務局」なる所で明日払い戻しをしてくれるそうだ。やれやれ、とにかく戻ってきたお金で新しくチケットを買い直そう。おっちゃんは「ついてこい」と手招きをする。この時点でも私はこのおっちゃんを信用していたわけではない。だが、今にも倒れそうな状態であれこれ詮索するのも面倒だったので、大人しくついていくことにした。
 駅から5分ほど歩いた場所に旅行会社のオフィスがあり、おっちゃんはそこに入っていく。ここの社員らしい。オフィスで少し休憩してから、リキシャーでおっちゃんの紹介してくれた「ホテル・アトランタ」に行く。ゲストハウスではなく中級ホテルだが、一泊80ルピーと、そう高くはない。おっちゃんは従業員と少し話しをすると帰っていった。部屋に案内してくれた従業員の兄ちゃんに「私は病気である。だから大変苦しい」と言うと、その兄ちゃんは驚いていろいろと世話をしてくれたのだが、その世話が半端じゃなかったんだよ。毛布を持ってくるわ、食べ物を運んできて食べさせてくれるわ、医者を呼んでくれるわ、薬を飲む時間になると水まで持ってきて飲ませてくれた。彼は夜勤なので明日、自分の代わりに私の世話をする人まで頼んでくれた。うっうっうっ。インドでこんなにも人に親切にされるなんてえぇぇ~。私は彼に何度もお礼を言い、やがて眠りに落ちるデリーの夜8時なのであった。
 翌朝は6時に起床。下痢はまだ続いていたが、熱は少し下がったようだ。8時半にべナレス行きの列車が出ると聞いていたので、急いでチェックアウトをする。駅で窓口に割り込んでくるインド人たちと死闘を演じたあげく、やっと二等寝台車のチケットが取れた(100ルピー)。ホテルに戻り、フロントで昨夜の彼に渡してくれと、迷ったが10ルピー差し出した。せめてもの感謝のつもりだったが、あれから10年以上立つ今でもふと思う。あの10ルピーは彼の手に渡ったのだろうか? やっぱり、渡っていないような気がするな。
 駅で昨夜のおっちゃんに出会った。おっちゃんは「いいか、事務局でチケットを見せれば大丈夫だからな」と言って、風を巻くように去って行った。うっ、かっちょいい。私にはおっちゃんの後ろ姿が高倉健に見えた。そして警戒心のせいで無愛想にしたことを激しく後悔した。親切で話しかけてくる人とそうでない人を見分けるのはとても難しい。今日でも構内をうろうろしていると、いろんな人が話しかけてきて教えてくれたのだ。それでもいい人だと思って気を許せば、騙されることもしばしばだ。結局、旅行者は騙されてボられながら旅を続けていくしかない。絶対ボられまいと肩ひじ張った旅は面白くないし、旅行者は基本的にその国にとって客人だから通行料だと思えば少しくらいボられても腹は立たん(と思えるほどの大人になりたいわっ!)。 
 しかし、それからがまた大変だった。事務局で聞くと、8番の窓口に行けと言われる。へい、さいですかと8番に行くと13番に行けと言われる。13番に行けば14番に行けと。ああっ、たらい回しだあ~っ。病み上がりの体でひーひー言いながらうろうろしていると、一人の男がここで聞けと13番と14番の間の小さな窓口を教えてくれた。こうしてやっとの思いで払い戻された大枚188ルピーを握りしめ、いつ出発するとも判然としないインド列車に備えて出発(あくまでも予定)時刻の3時間前からプラットッホームで待機していたのであった。青年は荒野をめざす。いざいかん、聖地ベナレスへ! でもここから18時間かかるんだよな。 
 二等列車に乗り込むと、その中はインド世界を凝縮したような騒々しさである。立錐の余地もないほど混み合ってる車輌にヤギを連れ込むやつがいるし、物乞いがお金をせびりに来たかと思えばおひねりをもらいに歌を歌いに来る人もいる。ガキどもは「バクシーシ」と遠慮なしに手を差し出してくる。こいつら絶対、無賃乗車だな。ななめ前に座っていたおじさんが「chinese?」と聞いてきた。それからこのおじさんが喋ること喋ること。よく分からないインド英語で、俺はガス会社に勤めてるとか東京と大阪にペンフレンドがいたとか、延々とまくし立て、それを回りの乗客が興味深そうに見ている。何時間かして、車掌が検札にやって来た。私のチケットを見て、「この車輌じゃありませんよ」と言う。おじさんが降りる駅で一緒にホームに降り、ポーターにチケットを見せた。 「ついてこい」(インドではこの言葉をよく言われるなあ) そう言うとポーターは私のリュックを肩に担ぎホームを走り出した。列車がどれくらい停車しているか分からんが、乗り遅れたらベナレスはおろか日本に帰ることもままならん。私は必死に走った。こんな時でもなぜか走りながら夜空を見上げ、月がきれいだなあ、なんて思っていた。ポーターの指し示した車輌に飛び乗ると同時に列車が動き始めた。お礼にと彼に1ルピーを渡そうとしたら、受け取ろうとしない。誇り高い人だなと思ったら、「パイサはいらない」と言っている。よく見るとそれは1パイサ硬貨だった。あわててポケットから50パイサを3枚つかみ出し、放り投げた。はあーっ。
 疲れ果て、三段寝台の中段にもぐり込み、泥のように寝る。下痢は依然として続いていた。いろんなことがあったような気がするが、インドに来てからまだ4日目なのであった。(つづく)

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 まず始めに今回のインド旅行記を読まれた方々に伝達しますが、この旅行記は1987年こと昭和62年の旅行記です。2003年(平成15年)に始めて発表された時点で10年以上前と主張されてます。この旅行記はある意味、アウトレットです。時々、どこかの国の国営放送も大過去の旅行記を放映していますね。それと似たようなものだと考えてお読み下さい。
 インド国内であっても病気で苦しんでいる状態であっても地獄から天国へと行ったようなお話でしたね。親切な人がいるかと思えば全然ダメな人も混在している状況です。法治国家は素晴らしいですね。そればかりか、旅行代理店がそれなりの仕事をしているからここまで大変な個人旅行にならないのかもしれません。
 しかしながら、日本国内においても行き先が不明瞭な駅が多いのが現実です。なかもず駅(地下鉄 御堂筋線)というか中百舌鳥駅(南海と泉北高速鉄道を兼ねた共同利用駅)がその典型例かもしれません。ご存知の方も多いでしょうが南海と泉北高速鉄道は同じ車両を利用している場合があるから紛らわしいです。平成十年代のある日、中百舌鳥駅で案内をした経験がありました。地方から大阪府に住んでいる息子さんに再会する為にやってこられた親御さんから質問されましたので案内をしました。私はこの時、彼等とは行き先が違っていたので電車の中では話をしませんでした。彼は、その時娘を連れてきていたから親子で大阪に来られていました。
 電車を乗り間違えると怖いですね。千葉県の西船橋駅のように恐ろしい駅がございます。乗り間違えると余裕で30分以上は目的地に到着するのが遅くなります。理由は、電車の本数が少ないからです。しかし、ホーム数が多くて12番ホーム迄存在しているから乗り間違えると試練です。千葉県民の間では有名なお話らしく西船橋駅については爆笑する千葉県民の男性や呆れる千葉県民の女性が居られました。
 日本国内で外国人が電車に乗っているのはよくあることで英語が喋れたら長話になることが多いですね。相手が英語を喋れない場合は片言の現地の言葉で終る場合が私の場合は多いです。喋るよりも書籍を読んでも良いかもしれませんね。 過去の時代だけあって、ペンフレンドがいたというのがインターネットによる技術革新を感じさせますね。今ではe-メール、ツイッター、フェイスブックと変化してきていますね。精神を病んでる人が病気を隠して関わってくる事があって大変困る事がございました。海外旅行中に内容が悪いばかりか大量に質問をしてきて楽しみを台無しにされる恐れがあるので皆様、警戒してください。「気を付けてください。」位で良いのに「どこに行くのですか?」や「海外旅行よりも国内旅行の方が良くないですか?」といったフザケタ質問をやらかすので相手にしたくないし激怒したら横槍を入れる人がいるかもしれないのでダイレクトメッセージで冷静にダメ出しをしましょう。以下が例文です。
「海外は日本国内と違って、治安が悪く安全に関わるのでそういった質問は控えてください。万が一の事があったらあなたは責任を取ってくれますか?」 人に迷惑をかけた後で何一つ責任を取らない病人を兼ねた悪人はいます。

 無論、普通の病気になった時に備えて海外旅行に行く時には歯ブラシや練歯磨剤(歯磨き粉)や胃薬や常備薬を忘れずに持っていった方が無難でしょうね。ちなみに液体歯磨きは容量が100ml以下であれば良いがそうでないと航空機内に持ち込める液体の規制に抵触する恐れがあるので船旅を除外して熟慮の上でご決断ください。実際の所、旅行用として販売されてる80mlの液体歯磨きは市販されてますが万が一を考えて一般的な練歯磨剤の歯磨き粉を予備として携帯されることを推奨します。
国内旅行の時もそうかもしれません。日本国内でも広大な住宅街に赴くと恐ろしいですよ。建物が多くあっても助けを求めにくいですからね。町中を歩いてる人が少ない町は恐怖です。

 私は海外の鉄道に乗車しました。カナダ旅行中にブリティッシュコロンビア州では有名なトランスリンクのスカイトレインには頻繁に乗りました。時刻表は無いが頻繁にやってくる無人運転の電車でした。スカイトレインの特徴は以下です。総延長距離 79.6km 路線数 3路線(ミレニアムライン、エキスポライン、カナダライン) 駅数 53駅 1日利用者数 361,500人(2014年)軌間 1,435 mm(標準軌) 最高速度 90 km/h(空港連絡鉄道になっていて南海本線のようなカナダ・ラインに限っては80km/h)
 一日乗車券(私が購入した平成27年10月には$9.75)だけ購入して何度も乗っていたし、乗り間違えても前述したように一日乗車券を買っていたからお気楽でした。自動販売機で買う時に音もなく機械から一日乗車券が出てきた時は少し驚きました。昨年(2016年12月2日)、延伸を果たし総延長距離がおよそ79.6kmなので現在は世界一長距離の無人運転電車になったかもしれません。スカイトレインは路線が3種類なので阪急のように分かりやすい電車でした。今回はインド旅行記ですが、海外に行って利用が難しい電車に乗ると苦労すると思います。周知されてますが、日本国内でも利用が難しい駅は存在します。だが、日本は鉄道大国だけあって新幹線のように高品質で早い電車が存在してますね。
 鉄道料金の支払いもややこしいがそれ以外の観光施設の支払いも割と難しく私はブリティッシュコロンビア州に存在する科学館と水族館に行ってきましたが、水族館職員が行う入館料についての説明が幾分難しかったのを連想します。もしかしたら、日本国内でインターネットで予約等をしたらクーポンがもらえたかもしれませんが予約した日にちに赴ける自信が無かったので多少高値を支払うのはやむを得ないと思いました。率直に伝えますが、料金未払いで糾弾されるよりも多少の高値を支払い問題無く過ごせる方がお気楽です。科学館だけ勘違いして館内の移動の最中に行き過ぎて職員にとがめられた事はございましたが水族館は円滑に楽しめました。海外では言葉の壁もあって、多少の勘違いや料金を多少は多めに支払うのはやむを得ないです。観光施設内部の何等かの有料の提案に対して肯定するか否かで料金も変動してきます。詳細は各自でお調べください。
 利用者が切符を持ってるかどうかの検札の際に切符を持っていなかったら多額の罰金がかせられるので悪い事はしてはいけないのです。カナダのトランスリンクの場合、無賃乗車の罰金はカナダドルで$175だそうです。その点は理解してもらいたい。日本であっても海外であっても交通費を踏み倒す人が存在するので検札が行われてるのは同様です。他人の仕事の軽視をする人は多い。日本だと、検札は近鉄沿線の人でないとご存じないかもしれない。知らない人は多いかもしれないが、もしも、間違えて有料特急に乗るとそれなりの料金が請求されます。たまに、駅員から特急料金を駅構内で請求されてあれこれ言い訳をしてる人を見かけ情けない思いをします。もしも、嫌なら歩行するかバスにでも乗ってたら良かったのに。私は、色々とあって単純にトランスリンクを利用せずにバンクーバーの町中を歩くだけで過ごした日もございました。





#30 インド編その6(リターンズ)
2012-05-01 | Weblog
#30 インド編その6

at 2003 12/19 00:32 編集
ベナレス、ベナレス、モスクワの味~って、そりゃパルナスやろがっ! (ベタですまん。しかも関西限定ギャグ)
 ベナレスは英語名のBENARES(ベナリーズ)の日本語読みであり、正式名はバーラナシーだ。現地ではバナラスともいう。ああややこしい。早朝6時にムガール・サライ駅に到着。オートリキシャー(小型オート三輪のタクシー)を拾い、ベナレスヘ。両側に花屋や食堂やゲストハウスやお香や聖水入れを売っている店等がぎっしりと並んでいる狭い路地を下っていくと(曲り角で牛と鉢合わせて角で突かれたりするから気をつけろよって、誰に言ってんだ)、いきなり視界が開けた。聖なるガンガー(ガンジス河)は思ったより広大でダージリンティーのように濁っている。ガート(沐浴場)では老若男女が口をゆすぎ、祈り、体を浄める。神様の乗り物とされる牛も水浴びをし、時おり排泄物も流れる。バラモンは説教をし、サドゥー(ヒンズー教の修行者)は瞑想する。おお、三島由紀夫の「暁の寺」で読んだ、あのベナレスに私はいるのだ。焼けつくような太陽の下、雄大なガンガーに無数のきらめくサリーと半裸の男たち。人々のざわめきと祈り。聞こえてくる讃歌。ガンガーで沐浴せば全ての罪は浄められん。無辜となった亡骸を荼毘に付し、ガンガーに流せば輪廻からの解脱を得ん。ああ、悠久の聖なるガンガーよおっ! 「バクシーシ、バクシーシ、ジー」と肩を叩かれたので振り向くと、乞食が列を作って並んでいる。「バクシーシ!」 ああ、うるさいっ。声を揃えるんじゃないよ。ゆっくりと思索にふける間もないな。そうだ、ボートに乗ろう。交渉して値切り倒し、1時間50ルピーで回ってもらうことに。ボートを漕ぎ出して川中からガートを眺める。いろいろなガートがあるが、中でも大きなガートは何かもう、ひっちゃかめっちゃかに様々なものが混じり合ってこの世のものとは思われない光景だ。
 いくら聖なる河だといっても、川底に人骨がごろごろ転がっていてたまに死体が浮いていて赤痢菌がうじゃうじゃしているような汚い河の水を飲んで下痢をするインド人だっているだろう。死んじゃう人だっているかも。いや、信仰という気合いが入った精神には病原菌も退散するのかもしれない。なんたって、遺灰をガンガーに流してもらうために地方からやって来てベナレスに住み、死ぬのを待っている人もいるんだもんなあ等と思索にふけるためにボートを漕ぎ出して思索にふけっていると、少女の乗ったボートが近づいて来た。
 「この花、神様に捧げる花。10ルピー。買え」 「船頭さん、買わないから先に行っちゃって」 それにしても信仰というものはすごいなあ。椎名誠が「わしもインドで考えた」で書いているように、このように信仰篤きインド人と信じるものなど何もないんだあ~と嘯いている日本人と一体どちらが幸せなのだろうか等と思索にふけっていると、少年の乗ったボートが近づいて来た。
 「ガネーシャ、クリシュナ、カーリー、神様の人形、いろいろある。20ルピー。買え」 「だあ~っ、うるさいわあ~っ! 俺を一人にさせてくれ~っ!」
 ボートを下りて火葬場のマニカルニカー・ガートに行くことにした。布に包まれた遺体を組んだ薪の上に乗せ、火をつける。薪がバチッバチッと音を立てて爆ぜ、布がめらめらと燃えていき、徐々に肉体が現われてくる。時おり隠亡が棒で遺体をつつき、火の回りを早くする。人間の肉体を焼く光景を見るのは初めてなので、最初は衝撃的だったが炎天下で陽炎のような炎を眺めているうちに感覚が麻痺してくる。インドでは何が起きても不思議ではない。 「インドが異常なのか、それとも日本なのか」 思索にふけっていると、いきなり風が吹いてきた。わっ、ぺっ、ぺっ、遺灰が口の中に入っちゃったあ~。
 近くで火葬を見ていた日本人らしき女性に声をかけたら、彼女は北海道の大学生だそうだ。話をしているうちにもう一度ボートに乗ろうということになった。人のよさそうな、おじいさんの船頭に値段を聞くと、20ルピーだそうだ。くう~っ、またしてもボられてたか~。そのボートにはおじいさんの孫だろうか、まだちっちゃな男の子や女の子が5、6人乗っていた。夕刻のガンガーは気温もいくぶん下がり、風が吹いていて気持ちがいい。ガートの喧噪も遠くに聞こえる。この辺りは6時になるともう真っ暗闇だ。それでも路地を歩くと聖地らしい喧噪がここかしこで聞こえてくる。自分が今ここにいることが不思議だ。日本を離れて本当に遠くまで来たんだなあ。と、感慨にふけっている暇はない。今晩8時半の列車でカルカッタに帰らなければならないのだ。ベナレス滞在12時間。ああ、せわしない。乞食や物売りの少年少女たち、明日もしっかり稼げよ。さらばベナレス、また来る日までえ~。(つづく)
 
 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項 


 パルナスですが現在は兵庫県尼崎市(阪神尼崎駅改札外)で創業者の弟にあたる人物が創業者で、モンパルナスというベーカリーを経営されてます。現在はパルナスさんは存在していません。先述したモンパルナスさんが事実上の後継店です。近畿ではパルナスは多くの店舗が営業してましたが平成十年代に会社を清算されました。
私は平成29年の夏の日にモンパルナスさんでロシアンドーナッツとピロシキを買ってきました。おいしかったです。




 とりあえず、寝台車で睡眠をとって下痢で苦しみながらドリアン長野はベナレスに到着しました。
 日本国内でも景品表示法が存在しないような小売店が存在していますがインドの方が日本よりも悪いみたいですね。 
下痢は恐ろしい病気です。近年、インドでは多剤性耐性結核菌や抗生物質の使いすぎの影響で屋外型MRSAが蔓延していると言われてもいますからね。こういった過去の海外旅行が原因で将来的に胃炎が原因で幼い娘を残して死去しないのを希望します。せめて、成人させて欲しいですね。全国に存在する渡航医療機関(トラベルクリニック)で国内未承認ワクチンと言われてるコレラの予防接種を済ませてからインドに行っても良かったかもしれません。海外旅行に行く前に予防接種を済ませるか否かは各自でご決断下さい。
 本来は霊的に過ごす聖地が繁華街のようになっているのはインドも日本も大差ないようです。

 海外旅行に行くキッカケが海外旅行記(ドリアン長野に限っては書籍)といった人もおられますが、皆さんはどういったキッカケで行先を決めましたか?私は好きな会社の商品が販売されてる国がカナダであったのでカナダへ行ったのですが品切れで買えませんでした。今となっては品切れだった場合に限ってなんですが、他社の同等品をオンラインショッピングで購入する人もおられると思います。
平成20年以降かもしれませんが何らかの商品の価格が日本国内でも一本化されることなく販売される時代になってきてるのを連想しました。
そればかりか、軽い気持ちで私の友人が住んでる町に行くのにはどうしたら行けるかについて調べると一旦、バンクーバーで乗り換える事が分かったので単純にバンクーバーに決めました。実は、その友人は幼子を抱えながらも(日本ではなく海外で)政争に関わってるようなのであえて、再会を控えました。これは、相手の立場を尊重した上での決断だったと皆様には考えてもらいたい。
しかし、空港からホテルの送迎バスを含めると、空港の利用料金(現地の税金も含む)や航空券とホテルの料金を合算した金額がフリープランの提案ですが、カナダのブリティッシュコロンビア州と米国のネバダ州のフリープランの料金が拮抗してたのは驚いた。個人的に調べた結果ですので賛同は得られにくいかもしれませんし、繰り返すようですがバンクーバー旅行とラスベガス旅行とは金額的に大差が無かったんです。ホテル料金がカナダのブリティッシュコロンビア州は米国のネバダ州よりも高値であったのかな?ただ、某テレビ番組でラスベガスが頻繁に紹介されてるが大変な人が多いらしい。これらの部分についての詳細は各自でお調べください。
 皆さんが海外旅行に行った時に船旅をされたことはございますか?私は短距離ながらバンクーバーでは有名なトランスリンクのシーバス(船)に乗りました。良い思い出になりました。中には行きもしくは帰りを日本から海外に向けて船で移動する人もおられるようです。出国が船か帰国が船かは人それぞれです。
購入の強要は良くないと私は思います。それと同程度に問題なのは、皆様、海外旅行に行ってる人に内容が悪いばかりか大量に質問をするのは辞めておきましょう。なぜならば、窮状を伝達しないだけで海外旅行中に時差ボケや病気等で困ってる日本人は多いです。
 一般で販売されてる書籍も今回のような非日常的な出来事はあえて、削減してるかもしれません。実際に海外旅行に行って経験した上での本音を打ち明ける書籍は過去よりも増えたかもしれませんが過去と現在とでは大違いです。いわゆる本音と建て前です。
海外でお葬式を見る経験をされる人も世の中にはいて、それがドリアン長野であったようです。私の友達の宣教師は日本で日本人に対してキリスト教について教えたばかりか、その教えた人の葬儀にも参加しました。
 私はバンクーバーを旅行中に女子高生の一団に出会いました。あれから随分と時間は経過するが連絡はとってません。連絡先も知りませんけどもね。全く別の在外邦人とは連絡を時々してます。 昭和の時代から住所交換をして年賀状を郵送しあう間柄の友人がいる人も今でも多いとは思うが現在は平成です。





#31 インド編 その7(リターンズ)
2012-06-01 | Weblog
ベナレスで知り合った人が泊まっているホテルに荷物を置かせてもらっていたので、急いで引き取りに行く。町中でリキシャーに乗り、町外れまで行き、そこからオートリキシャーを雇ったのだが、運転手が飛ばすこと、飛ばすこと。急いでくれるのはありがたいのだが乗っている方は気が気ではない。人波を巧みにかわし、F1レーサーのように車を追い抜き、対向する牛の横をするりと通り抜ける。まったく、生きた心地がしなかったよ、あたしゃ(ここだけちびまるこちゃんの声で読んでね)。
 やっと駅に着いてやれやれと思っていたら、駐車しようとする寸前に横から二人乗りの自転車が突っ込んできた。私は後ろの座席であるはずのないブレーキを思いっきり踏んだが、やっぱりぶつかった。自転車は派手に横転したが、男たちに大したケガはなかったらしく、起き上がると猛然と食って掛かってきた。それに運転手が応戦する。回りには野次馬が集まってきた。こういう場合、インド人は激しく罵り合っても手は出さない
(警官が民衆を警棒でどついている光景は時々見る)。インド人と中国人は似ているような気がする。どちらの国も人口が多いので自分を主張しないとやっていけない。謙譲の美徳なんて言っていたらバスにも乗れないし、列車のチケットも買えないのだ。そんな生存競争が激しい国では自然と気性が荒くなるのか、しょっちゅう言い争いをしている。そうやってケンカになるとわらわらと人が集まってきて見物を始める。誰も仲裁はしない。大学の時の先生が言っていた。中国からの留学生が日本に来て不思議に思うのは、街を歩いていても電車に乗っていても日本人がとても穏やかでケンカをしないことなのだそうだ。インド人だってそう思っているのに違いない。しかし、私に言わせればケンカばっかりしているあんたたちの方がよっぽっど不思議だぞ。とにかく座席にリキシャー代を置いて、ケンカをしている二人を尻目に駅へと急ぐ。
 プラットホームには日本人の団体客がいた。五才くらいの女の子が彼等に「バクシーシ」と手を出す。そこにいた若者たちがこう言っていた。「お金ないんだよ。ノー・マネー。わかる?」 「逆にこっちから『バクシーシ』って言ってみればいいんじゃないの」 「そうか、ほら、バクシーシ」 日本人に手を出された女の子はきょとんとしていた。むき~っ! 今でもこの光景を思い出すと腹が立つ。その子は好きで物乞いしてんじゃねーよ。貧しくて働きたくても働けねーから仕方なくやってんじゃねーか。そうやってインドまで遊びに来ている金持ちの日本人(私もだけどよ)がいたいけな子供をからかうんじゃねーよ。金をやるつもりがないんなら、断るか無視すればすむことだろーが、あほんだらっ! と憤慨していると一人の少年が私にお金を乞い始めた。歩き出してもしつこくついて来て、私の靴に額をこすりつけてくる。とうとう根負けして某かのお金を与えた。するとその少年は仲間のところへ戻り、ひそひそと話をしていたかと思うと五、六人がこちらに突進してきた。あわてて逃げ出す。そういえば列車が駅に着き、乗客が降りると子供たちが一斉に乗り込んできた。何をするんだと見ていると、ゴミ箱や座席の下からペットボトルを拾い集めている。そして構内にある水道の蛇口からペットボトルに水を入れてキャップを閉めているのだ。誰に売りつけるんや~? と考えるとはたと思いつくことがあった。中級のホテルに泊まっていて、ミネラルウオーターを頼んだ。ボーイが持って来たボトルには明らかに水が7分目ほどしか入っていない。もちろんキャップは開けた跡がある。こいつの中身は駅の水道水やないかいっ?! 責任者、出てこいっ!(by 人生幸朗師匠)
 こういう風にインドのガキどもは毎日を逞しく生きてゆくのであった。幼少のみぎりから鍛えられているんで、斯くの如く冷酷で抜け目のないインド商人に成長していくのもむべなるかな。合掌。(つづく)

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 日本だと保険並びに法整備が整っているから基本的には事故の言い争いは少ないです。しかし、実際に交通事故が発生し示談がこじれた結果、加害者が指名手配されている前例は日本国内でも存在しています。
 日本人観光客がインド人の女の子に対して「バクシーシ。」と発言したのは正しい行動だと思う人は多いかもしれません。理由は強要について否定的であったり何度も聞かれたので辟易し否定的になったからです。インドではいい加減な人間が多いと考えているインド旅行の日本人被害者はいるかもしれませんが、本当に困っている子供達は助けた方が良いとは思います。日本でも宅配ピザを頼んだら玄関前の通りで遊んでいた子供達が届けられたピザの搾取をしようとしていました。日本人で裕福なのにピラニアみたいな子供達には何もプレゼントしないのが教育です。搾取は否定すべきです。厳しい社会です。宅配ピザも、スーパーで販売されてる冷蔵ピザとの価格競争が始まってますね。
 私が行ってきたバンクーバーでも町中の朝焼けを写真撮影してただけで文句を言ってきた人がいて別人が走ってきて抗議してたが依頼も何もしてないのにも関わらず50セントを要求してきたから相手にせずに立ち去りホテルに戻りました。万が一ホテルの中にその人物が入ってきて不条理な抗議をされると私はロビーの人に助けを求めることを決めてましたが、その無関係な人はホテルには入って来なかったので一安心でした。
 過去と違い現在、気づいた時には日本人も錯乱していたり善悪の判断が行えない人が増加していますね。傲岸不遜な人物がいて、羞恥心があるのか無いのかは不明だがちゃんとした説明もなしに「娘が寡婦だから生活費を支払ってもらえる。」と勘違いしてた人がいてその人物が私に対して不条理な行動を取った事から支払い拒否を伝達したら泣きながら逆上し「何てことを言うんだ。」と言われました。他人の業務上の艱難辛苦を軽んじた上で人の善意につけこむから気分を害した前例もございました。乏しくても説明責任は存在すると私は思います。案外、彼等一家は毎日ステーキでも食べてるのかもしれません。言い換えると「彼等一家は全く乏しくない。」から説明拒否をしたのでしょう。世の中には関われる人、関われない人がいます。いたいけな子供をからかうのは良くないにしても周囲の大人は保護者だから責任があると思います。子供を助けるか否かは各自で熟慮の上でご決断ください。子供達には教育が必要で絶対に搾取を伝えてはいけないんです。日本国内でも「自動車下さい。」と搾取を兼ねた強要をしてきた飲食店の従業員がいたので拒否した事を連想します。
 日本は、諸外国からカルトがサリンを作るまで放置したのがおかしいと考えられていたり、2011年3月11日の福島原発の事故の後処理等で常識が疑われています。だから、複数の海外の企業が日本にやってきた。後処理の仕方が悪かったからです。すでに発表されてますが、チェルノブイリよりも福島県の方が悪い状態だそうです。インドは平成10年代に核武装した国へと変貌したのでこれから国内の貧困層を抱えながらも核戦争に突入するやもしれません。ドリアン長野がインドに行った時期はインドが核武装する前の時代です。
 世界的に水不足は深刻で日本国内の河川で海生生物が発見されているのは河川の水量が激減して海が内陸部に上がってきているからだそうです。お水は水質並びに水量にも気を配る必要がございます。

 お水ですが、海外旅行中には衛生的なお水を大量に購入されることを推奨します。私はブリティッシュコロンビア州でそうしました。ホテルの近くで営業してるオフィス用品を販売するお店で500mlのペットボトル24本のミネラルウォーター(12kg以上)が一まとめにして販売されてたので購入しました。ホテルの冷蔵庫に入れて冷たいお水が飲めて幸せでした。
 インドでは客が困ることを何とも思っていない悪徳な人もいるようです。実際に大量にお水を日本で購入してから海外に行く人もおられるようです。なぜならば、体調不良を避けるための行動だからです。
 水についてはとても難しく、実際に海外に行くと日本の水道が良い状態にあることを再認識する人は多いと思います。

 今回の旅行記を読んで気づいた人も多いとは思いますが、海外でレンタカーを利用することについての危険性を認識する必要がございます。私は皆さんの中の誰かが海外でレンタカーを利用することについては妨害も否定もしませんが、レンタカーの利用についての積極的な推奨は行えません。海外でレンタカーを利用してるテレビ番組は数多く存在しますが、テレビで見る程度に留めておく程度が良いと思います。万が一、違反や事故が発生した場合は多額の支払いが必要になります。無保険だと悲劇が発生しかねません。周知されてますが日本に帰国後に請求される可能性もございますので、詳細は各自でお調べください。

#32 インド編その8

at 2004 01/01 23:07 編集

早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。フーグリー河に架かる巨大な鉄橋、ハウラー橋は通勤する人で丸の内のようにごった返している。喧噪の中、澱んだ河を見ながら私は一人、物思いに沈む。 「今日でインドともお別れだ。長かったようで短かった一週間。物売りや物乞いに辟易し、下痢や発熱に悩まされた一週間。騙されたりもしたけど、親切な人にも出会った。うるさいが、頼もしくもある子供たち。チャイ屋の売り声、灼熱の大地、道端で死んだように眠りこけている犬、漆黒の暗闇、ベナレスの炎、死体、サドゥー、カーリー女神に捧げられるために首をはねられる山羊」 様々な光景が次々に浮かんでは消える。けれどもインドよ、今日でおさらばすると思うと........、あ~嬉しいわいっ! とっとと日本に帰るぞ。帰って風呂に入ってうまいもん食ってゆっくり寝て下痢を直すぞ。こんな国、二度と来るもんかいっ。一刻も早く空港に行って飛行機に乗って文明国に帰るんじゃい。帰るったら、帰るんだ~い!
 帰りの飛行機で同年代の男と隣り合わせになった。どちらからともなく話しかけ、彼はパリでアパートを借りて住んでいたことやアジアのいろんな国を旅した話をしてくれた。私が海外旅行は初めてだと言うと、彼はこう言った。 「それならあなたはこれから何度も旅に出るでしょうね。一人で旅をする快感を覚えたら、それはやみつきになりますよ。僕がそうでしたから」 私はそうはならないだろうと確信していた。こんな苦しい旅なんか二度とごめんだ。
 成田空港に着くと私は激しい違和感を感じた。その違和感は日常生活の中でも長い間続いた。日本はなんでこんなに清潔で日本人はなんで異常なほど清潔好きなんだ? 日本人はなんで大したことでもないことをいちいち気にするんだ?(インド人は何があっても二言目には「ノー・プロブレム」って言うじゃないか) なんで商品には全て値段がついてる? なんでどこに行っても自動販売機があるんだ? なんでみんな、自分のことをすぐに不幸でビンボーだなんて言うんだあ? おまけにふと、インドの子供たちや大人たちの姿がちらついてきたりする。 
 「カルカッタは好きな街だよ」 仲良くなったホテルのボーイにこう言うと、彼は言ったっけ。「一週間の滞在では何も分からないよ」 そりゃ、そうだ。けれども分かったこともいっぱいあったぞ。旅が短いか長いかなんてのはあまり重要ではないと思う。果たして私は自分を変えることが出来たんであろうか? それは本人にはよく分からんが、インドで学んできたと胸を張って言えることなら、一つある。駅のトイレに入って、紙がなくてもちっとも慌てなくなった。どんなトイレでもバッチ来いって感じ。私にはインドで習得した、この黄金の左手がある。紙で処理するなんて、なんて不潔で野蛮ざましょ。あら、あたしも気づかないうちにインドかぶれかしら。オ~ッホッホッ。ちなみに帰国してから軟便が三か月続いたざます。(インド編終わり)

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
 インドはインド。日本は日本。一般的なテレビ番組の海外旅行記だとお笑い番組を除外してこういったお話はほとんど無いと思われます。平成20年代になってから海外旅行中の試練のお話の紹介は増加傾向とは言えども現実的な試練のお話はなお少ないと思います。どちらかというと、観光地の紹介やおいしい食事をしてきたお話が多い現状はお笑い番組を除外して少ないです。だけど、ドリアン長野は海外旅行の現実を発表されました。

 一回だけと思っていたら継続することになった経験がドリアン長野の場合は海外旅行でした。余裕で10か国以上、海外旅行をされました。素人だと多い方です。無論、一部の芸能人や貿易商人は別口です。
 清潔といっても大阪のある町(N)の結核罹患者はアフリカ並みだそうです。日本でもいい加減なお店であれば景品表示法の存在をないがしろにして価格が明確化していない場合があります。一部の店の看板に価格を表明してるお店は有名でも小売店でも価格が分かりにくい場合があります。昨日の贅沢は今日の当たり前で貪欲な人が多いから日本人は強欲かもしれません。日本製が高品質なのはこだわりをもって製造しているからなんです。分かりやすいお話かもしれませんが、スズキ自動車がインドで成功したのは神経質な日本人が技術指導をしたからに他ありません。現在の所、日本だけでウォシュレットが普及しているようです。 旅行も大別すると快適な旅行と不快な旅行に分かれるようですが、今回はドリアン長野にとっては病気はしたが不快な旅行ではなかったようです。 皆様も海外旅行に行かれる際には胃薬を所持していかれるのを推奨します。

 実際に私はバンクーバーに行ってきて日本の景品表示法という法律は大きな意味があると思いました。皆様にピザの購入の無理強いはしませんがそれでも3枚のピザを$5で販売するという英語の解釈が行えるようになってほしいです。店の扉に3 for $5と大きく印字されたポスターが張られてました。私は当初はよく分からなかったのですが後に前述した内容を理解しましたので本当に3枚のピザを買いました。袋代か消費税は別で請求されたかもしれませんがそれらの支払い責任はあるのですが、実際にはきっちり$5ではありませんでした。日本でも税別価格と税込み価格が混在してるようなものです。案外、ピザ一枚が$1.75であったのかもしれません。最近は不明ですがドリアン長野が行ってきた当時のインドはカナダや日本よりも値段が不明瞭なようです。
 トイレ事情ですが日本は良くても海外は良くないです。ホテルできちんと済ませてから外出されることを推奨します。どこかの誰かには胃腸病院に行って治療を受けてきてほしいと真剣に思いました。理由は伝染病患者かもしれませんからね。
 皆様、海外旅行に行くのは良いですが海外旅行案内書やインターネット上の海外旅行記を読んで予習してから行くようにしましょう。海外旅行中は予想を超える問題が発生します。意図的に問題を発表しない人はいます。理由は幾つが存在しますが海外旅行に行った事が無い人の憤慨や冷やかし等がその理由の筆頭ではないでしょうか?もしくは、海外旅行中の過失行為についての弱みを握って悪事をやらかしたかったのかな?
 インド国内一つとっても、西ベンガル州コルカタ、デリー連邦直轄地、ウッタル・プラデーシュ州ベナレス(英語ではヴァーラーナシーでヒンディー語ではバナーラスとも言われてるらしい)等、幾つもの町々が存在しある程度の地名はその国へ行く前に覚えておく必要があると思います。
 カナダも英語とフランス語(ケベック州の公用語)で町の名前が変更される。ブリティッシュコロンビア州がフランス語ではColombie-Britannique(コロンビーブリタニーキ)に変わります。 
 皆さん、インドでは電子マネーが平成29年頃から急速に普及してるそうですので過去と現在は大違いだそうです。

次回のドリアン長野の海外旅行記はニューヨーク旅行記です。ご期待ください。かの地ではヌーヨ~クみたいな発音です。

冒頭の画像ですがドリアン長野がインド国内で複数の町に行ってきたことから複数の町の位置が分かりやすい地図を紹介しました。

紹介した幾つかの動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

ニューヨーク旅行記 前編  2017/8/27(日) 午後 11:59



ニューヨーク州 地図 NY


ニュージャージー州 地図 NJ


ミシガン州地図 MI

米本土地図 USA mainland Map





#33 NYタイムズ・スクエア編(リターンズ)
2012-08-01 | Weblog
#33 NYタイムズ・スクエア編

at 2004 01/09 00:47 編集

1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。歯の根が合わないほど寒い。それでも何千人といる群集は誰一人として帰ろうとはしない。私もたぶん、彼等と同じ気持ちだった。それは2000年へと続くデケイド(10年間)の幕開けを世界一の都市で祝ったという記憶を自分の中に刻みつけておきたいから。彼等は家に帰って言うだろう。「90年の始まりにはあそこにいた。みんなとハッピー・ニュー・イヤーを言ったんだ」。 私は夜の8時から待っているが、12時までは途方もなく長い時間に思えた。混雑を緩和するためにあちこちに「Police Line」と書かれた遮蔽板が置かれている。警官の目を盗んで一人の男が、さっと板の下をくぐり抜けて走り去った。近くにいた警官に誰かが叫ぶ。「Shoot him!(射殺しろ)」 周りがどっと笑う。ここでの模様は全米で生中継されるのでテレビカメラにパンされた群集はとにかく騒ぐ。叫ぶ、踊る、手を叩く、こぶしを突き上げる、街角で黒人が1ドルで売っていた紙笛を吹き鳴らす。私といえば、寒さと疲労に耐えながらひたすら待つ。
 11時59分。カウントダウンの斉唱が始まるとSONYの広告の下に取り付けられた電球の塊がゆっくりと降りてくる。下がりきったら1990年だ。ウエルカム・トゥー・ナインティーズ!  
 見知らぬ者同士がハッピー・ニュー・イヤーを言い合い、抱き合う。雨の中、群集がブロードウエイを行進する。この光景はデジャビュだ。どこだったろうと考えていたら、ウオーレン・ビーティ監督、主演、脚本の映画「レッズ」でロシア革命前夜に人々がインターナショナルを歌いながら街を行進する場面だった。今日の夜はニュージャージーに住む友人のアパートに泊めてもらうことになっている。あちこちが通行止めになっているので迂回していると道に迷ってしまった。バス・ターミナルの場所が分からないので雨宿りしながら地図を拡げて見ていると、二人連れの黒人が「どこに行きたいんだ?」と声を掛けてきた。「ポート・オーソリティー・バスターミナル」と答えると、「ついて来いよ」と手招きする。 
 新年に浮かれる人々の喧噪の中、彼等を見失わないようについて行く。20分ほど歩いた。ミッドタウン・ウエストにあるこの24時間運行の巨大なバスターミナルは常に通勤者で賑わっているが、今日の賑わいは特別だ。案内してきた男が言う。「チップをくれ」 1ドル紙幣を出し、渡そうとするが受け取らない。少なすぎたかと思い、「2ドルでは?」と言ってみる。すると、「冗談じゃないぜ。俺たちは長い道を案内してやったんだ。フェアじゃねえ。もっと出せ」とすごんできた。無視して歩き出すと、「聞こえないのか? もっと出せと言ってるだろう」と喚きながらついてくる。「警官を呼ぶぞ」と睨みつけると渋々2ドルを受け取り、やっと退散した。バス乗り場に行くと、また黒人が寄って来て、「どこに行くんだ? チケットは持ってるのか?」と親切(?)にも聞いてきた。彼はチケット売り場まで案内してくれ、言った。「ギミー・ダラー」 ああ、アメリカがチップ社会だというのは本当だ。Money talks in America.(アメリカでは金が物を言う)彼に1ドル渡す。バスを待っていると、日本人女性が二人やって来たので話しかける。二人は姉妹でお姉さんがニュージャージーに住んでいるという。妹が日本から姉に会いに来て、今日はミュージカル観劇の帰りだそうだ。「ブロードウエイのニューイヤーズの騒ぎが恐くて.....」とアメリカに来るのが初めての彼女は気の毒なくらい蒼ざめていた。
 「目的地に来たら知らせてください」と運転手に住所を告げ、座席に座る。バスが出発してからしばらくして奇妙なことに気がついた。奇妙なことといっても、私が日本人だから少しばかりそれを感じるだけのことだ。バスが停留所に着き、乗客が下車する際に、ほとんどの人が他の乗客の方を向き、「ハッピー・ニュー・イヤー」と言ってから降りていくのだ。「これもアメリカだな」私は心の中でつぶやき、自分がアメリカに来たことを初めて実感していた。 

 管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項


— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年9月5日 ">

 参考までに映画レッズについて紹介しました。私は共産主義者でもなければ社会主義者でもありません。念のため。ドリアン長野にとっては、インドばかりか米国へ旅立ったので80年代においては二回目の海外旅行のようです。
 アメリカ旅行記といえば海外旅行記の定番中の定番です。 平成初期の海外旅行記であります。ニューヨークの冬場は寒いそうなので寒さ対策をしてから訪問する事を推奨します。防寒性が高いポリエステルと防風性と防水性が高いナイロンを用いた防寒着が必要かもしれません。ランズエンドのスクオールパーカ等を推奨します。

— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年9月5日 ">

 Dacade(デケイド)この言葉には大きな意味がありますね。なぜか、平成20年代が始まる頃には新たな十年(デケイド)が始まるといった言葉を聴かなかったようにも思えます。
 ニュージャージー州とニューヨーク州は隣接しているので有名です。半ば余談ですが、ネッツはニュージャージーネッツ(1977年から2012年6月)でしたが、平成24年(2012年)7月以降はブルックリンネッツになって本拠地を移転しました。周知のように元々、ニュージャージーアメリカンズ(1967年から1968年)がニューヨーク・ネッツ(1968年-1977年)になってからニュージャージー・ネッツでしたが、前述したように現在はブルックリン・ネッツです。ニューヨークとニュージャージーは隣接してるからかネッツのように何度も行き来する人が存在してます。バスケットボールのシーズンはその年の前半と後半で大別して試合が開催されているから本拠地の移転作業(?)は6月が多いようで7月1日には移転が完了するようにしてるようです。

 日本国内でもそうですがバスを利用される人がそれなりにおられますが、どこに行くのか怖くなる時はあります。ある程度の土地勘がある町であれば躊躇なく利用出来ると思いますが、土地勘が無い町に行く時にバスを利用する時の心配は並ではございません。「海外旅行の時にバスを利用した。」と言っても日本国内の旅行代理店を通じて依頼した現地の在外邦人が勤務する観光業者が運行する空港からホテルへの送迎バスではなく海外の公共のバスについて述べます。
 私はブリティッシュコロンビア州で何度もバスを利用しました。昨今というか平成20年代になってからはタブレット等で土地勘が無い町のバスの情報を前もって得てから利用する人は多いに違いありません。幾分は安心だと思います。但し、往復で調べる必要がございます。往路は成功しても復路で失敗した事が私はございました。本来、到着すべきバス停よりも前に到着して現地の在外邦人に道を聞いて助かった過去を連想します。幾ら感謝してもしきれません。あの時は時差ボケで眠気に襲われてる時で大変な思いをしてました。何とかホテルの部屋に戻って熟睡が行えて幸せでした。迷子による憤りと時差ボケの合併症は大変です。
 他にもホテルから少し歩いてからバス停を探して利用した方が良い事が分かった事もございました。実際に現場に行くと微妙に違うこともございます。ホテルの前からだけでなく土地勘がある場所に迄歩いてからバスを乗ると一回で行ける事が分かったんです。利用しないよりも利用した方が良かったバスに乗らなかったこともございました。言い換えると間違えた見送りをしたということです。バスの利用が推奨されてる理由は、他の交通機関が無いだけでなく徒歩で高さ27.4メートルのグランビル大橋を渡るよりもバスでのんびり渡る方がお気楽という事情があったりもします。それらも経験だと思います。
 バスと電車と船(一路線のみ)が乗り放題になるトランスリンクの一日乗車券を買っておいて私にとっては正解でした。無論、人によったら「支払いすぎで浪費。」と考えられるかもしれませんしそれは否定しませんが万が一を考えると損はなかったと思います。時差ボケで朦朧としてる時に一日乗車券をバスの支払いに使う時に運転手さんから「忘れたの?」と聞かれた時に見つけ出して機械に一日乗車券をかざしてピーと鳴らして支払いを済ませた事を連想します。海外では近鉄の特急車両のように検札が行われた時に万が一乗車券を保有してなかったら高額な罰金の支払い責任が発生することは有名なお話ですので私は一日乗車券を買うようにしてました。
 昨今は日本国内において外国人がスマホを見て宿泊先を探してる事が多いです。個人的になんですが実際にブリティッシュコロンビア州で道に迷った経験があるから、彼等にしたら初めてやってきた異国で道に迷う外国人を私は一切批判することは出来ないです。今回のニューヨーク旅行記の時期は平成元年と平成二年です。過去は単純に地図を見る人が多かったと思いますが現在はスマホやタブレットに半ば切り替わりました。スマホやタブレットの地図の保存機能があるかないかは大きいです。無論、紙媒体の地図も及第点が取れてるから利用する人はそれなりにはおられます。
 ただ、道案内したからって小銭をせびられるのは困りますね。無意味にお金を請求された時に無視をして立ち去った事が私はありました。単純に町の風景を撮影しただけで文句は言われたくないですしその文句を言ってた人物に抗議をしたからといって金を支払う気持ちはありません。

 神々がやってきたニューヨーク。今回のニューヨーク旅行記を楽しみに待ってください。
オマケ 
現地ではヌーヨ~クといった発音だそうです。




#34 NYバスターミナル編

at 2004 01/15 22:22 編集

8番街から9番街の1ブロック、40丁目から42丁目の2ブロックにまたがる巨大なバスターミナルがポート・オーソリティ・バスターミナルです。グランド・セントラル駅(映画「アルマゲドン」では隕石の破片が直撃して壊滅しました)とペンシルバニア・ステーションという二大鉄道駅にここを加えれば、ニューヨークの三大ターミナルになります。ターミナルといえばホームレスのたまり場になりやすいので御多分に漏れずこれらもそうなのですが、前者の鉄道駅はチケットのない者の待合室への入場を禁じているせいもあって比較的清潔で安全です。しかし、ポート・オーソリティは場所からして周辺に老朽したビルが多く、地元では「地獄の台所」と呼ばれており、治安もあんまり良くありません。そしてホームレスはフリーパス。必然的にこの駅はホームレスの憩いの場アーンド生活の場となっています。一歩足を踏み入れてみれば、まあ、すごいですねえ。「F×××」を連発して、何かに怒りながら歩いている人がいるかと思えば、必需品を一切合切ショッピングバッグに詰め込んで生活しているショッピングバッグ・レディと呼ばれる老婆が座りながら小便を垂れ流しています。窓口でチケットを買えば、ホームレスが「釣りをくれ」と寄って来ます。しつこいようなら無言で睨んでやりましょう。階段には寝ている人がよくいるので、歩きづらいですが踏んづけないように注意しましょう。トイレの洗面台で真っ裸になって体を洗っている人もいます。彼がホモの場合もあるので気をつけましょう。とろんとした目で座り込んでいる人はヤク中なので目を合わせてはいけません。お金をせびられます。夜になると待合室で待っているだけでお金をせびられます。昼間でもボーッと立っているだけでせびられます。ほな、どないせいっちゅうねん、とおっしゃる方もいるでしょう。コツはさっさっと早足で歩き、せびられたら無視することです。英語が分からないふりをするのもいいでしょう。カラテの型をやるのもいいかもしれません。それでもしつこいようなら、相手はどう猛といえども人間です。脅えた態度を取ってはなりません。じっと目を見つめて(これが肝要です)25セントを渡して素早く逃げましょう。それにしても日本のホームレスはおとなしいのに、何でインドやアメリカはあんなに戦闘的なんでしょう?まだまだ日本はホームレスといえども裕福だということなんでしょうか。1階のバスの待合室には「今夜泊まる場所のない人はここに来て下さい」というプレートがあり、住所が書いてあります。マンハッタンにはシェルターと呼ばれるホームレスのための宿泊施設がたくさんあります。そこではベッドがあり、簡単な食事も給されるのですが、いかんせん喧嘩や盗難(靴とかが多いようです)が多発するので敬遠する人もいます。そんな人はこの待合室で寝るのでしょう。
 私はここに来ると、いつも天王寺駅を思い出します。現在は都市開発計画で天王寺駅もその界隈もずいぶんときれいでおされになりましたが、一昔前はもっとホームレスが多く、殺伐としていました。自分でもよく分かりませんが、ニューヨークに来るたびに私はポート・オーソリティに足を向けてしまいます。何をするでもなく、ただターミナル内を歩き回るだけですが。
 もし、神さまに名前があるのなら、どんな名前なんだろう
 俺たちは神さまに向かって、その名前を呼ぶんだろうか
 神さまとその栄光を目の前にして何を尋ねる?
 もし一つだけ尋ねるとしたら?
 
 ああ、神さまは貴い
 ああ、神さまは良きもの
 もし、神さまが俺たちのうちの一人だとしたら?
 俺たちのうちの薄汚いやつだとしたら?
 家に帰るバスの中の見知らぬやつだとしたら? 
 もし、神さまに顔があるとしたら、どんな顔なんだろう
 見てみたいと思うかい?
 もし見ることが信じることと同じだとしたら?
 天国やイエスさまや聖者やぜんぶの予言者たちを
 ひとり天国へと帰ってゆく
 電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
 
 聖なる転がる石のように
 ひとり天国へと帰ってゆく
 家に帰る途中みたいに
 電話をかけてくれるのはローマかどこかの法皇だけだ
 「One of us」ジョーン・オズボーン (1995年「RELISH」収録 ドリアン長野 訳


管理人マーキュリーマークの感想文と皆様への伝達事項
上記の画像は北巽バスターミナル。

 アメリカのニューヨーク旅行記です。
 映画、アルマゲドンは平成十年代初期を代表するアメリカの映画ですね。
皆様も過去に一回位は聞いたことがあるようなアメリカの大都市ヌーヨ~クのお話ですね。具体的には困っている人々が駅に集まっているお話です。これは、私が平成十年代の夏のある日に実体験したお話なんですが、あるバスターミナルの待合室に赴いたらとても暑かったのを連想します。なぜならば、ホームレスの人がやってこないように待合室に暖房をつけていたからです。そこにいた警備員さんから教えてもらい少し驚きました。 将来、そのバスターミナルには地下鉄今里筋線が利用出来るようになるとも言われていますが現時点では未定です。
海外旅行であれば有名な施設に行く機会があるとは思いますが全て治安が良いとは限らないというよりもむしろ、治安が日本国内よりも悪い場所がほとんどなので皆様、お気をつけてください。ポート・オーソリティ・バスターミナルは大阪で例えればOCATのようなものでしょうか?バスターミナルも多種多様です。規模の大小は存在しますし、幾つもの小売店が近接しているばかりか小売店へいざなうバスが行き来しているバスターミナルが存在します。バスターミナルに集まるバスの行先は本当に東西南北色々です。日本国内でもバスターミナルからホテルへ行く路線(シャトルバス)が存在してます。同様に海外のホテルでも同じ様に国際空港からホテルへのシャトルバスを運行してるようです。国際空港が事実上のバスターミナルになってる存在もあるようです。
 ニューヨークの場合、バスターミナルが危険な町を兼ねた観光名所になってるようです。私がバンクーバーに行った時は意図的に危険な町には行きませんでした。海外旅行案内書でさえも否定的であったばかりか現地の在外邦人(*1)も同様に否定的でしたのでバンクーバーのチャイナタウンについては否定的になってしまって行きませんでした。実際に赴いた訳ではないのですが、そのチャイナタウンにバスターミナルが存在してるらしいのです。繰り返すようですが、私はバンクーバーのバスターミナルには行きませんでした。皆さんが海外のバスターミナルに行くか行かないかは自由です。人によったら国内のバスターミナルにも行った事が無いかもしれませんけどもね。確実なのは、海外のバスターミナルは治安が日本よりも悪く言葉の壁があるようですが、日本国内のバスターミナルは大規模であればややこしいかもしれませんが日本語だけに分かりやすく治安も良いハズです。日本のバスターミナルと海外のバスターミナルは大違いと考えても悪くないと思います。
 
冒頭の画像ですがドリアン長野が米国内で複数の町に行ってきたことから複数の町の位置が分かりやすいように複数の地図を紹介しました。

紹介した幾つかの動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。
 
オマケ
下部の画像は平成25年にドリアン長野が撮影した天王寺駅に近接してる阿倍野ハルカスです。
下部の画像は、管理人マーキュリーマークが撮影してきたJR天王寺駅並びにその近辺です。
*1 送迎バスの運転手さんは行きと帰りで別人でしたがお二人共にバンクーバーのチャイナタウンについては否定的でした。

森山直太朗 夏の終わり 2017/8/30(水) 午後 11:56

今までこの歌を夏の思い出を懐かしむ恋歌だと思っていたが、反戦歌だったとは。
そう思って聴くと詩の一行一行が胸に沁みる。
10歳の時に広島で被爆し家族を失い、街中を泣きながら逃避していたという父のことに思いを馳せ、涙した。

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回顧を兼ねた書評 令和二年三月


僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


ランニングについての投稿




ランニング(特に早朝)をすると
眠気がふっ飛ぶ
血液が循環する
走っている時は悩みを忘れる
デトックスになる
街中の新しい発見
脳から快感物質が出る
一日爽快感が続く
大阪城公園〜坐摩(いかすり)神社の紫陽花