2019年9月1日日曜日

2019年8月に行われた投稿



10時間前 ·

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」「七帝柔道記」などの著者 増田俊也のインタビュー。

彼は中日新聞の入社試験の最終面接のときに人事部長から『自分の長所を3分間でアピールしてください』と言われる。彼は一言『男が自分の長所を人前で言うようになったらおしまいです』と答えたそうである。彼の人柄がわかるようなエピソードではないか。 このインタビューには泣いた。泣けて仕方がなかった。

「僕は中日新聞に入って少したった頃、29歳のときに兵庫県警の採用試験を受けたんです。僕の後輩で、七帝戦で北大が12年ぶりに優勝したときにリーダーシップを取った男が非常にいい男でしたが、その後、燃え尽きて自殺してしまったんです。それがショックで、何か自分にできることはなかっただろうかとぼうぜんとした日々を過ごしました。その時の僕の答えが、あいつにもう一度納得できる柔道を見せてやりたい、ということでした。柔道のできる環境を求めて、では警察官になろうと。でも御存じかと思いますが、各都道府県の警察はそれぞれそこの自治体の地方公務員なんです。だから採用試験の年齢制限などもマチマチでした。で、受験資格がぎりぎりあったのが兵庫県警だったんです。受験の日に30歳になっていなければという条件でした。僕は11月が誕生日で30歳だったので、兵庫県警だけは受ける資格があったんです」

 後輩への思い、柔道のために県警の採用試験を受けようと思われたのですね。

 「実は当時は僕の父はまだ愛知県警の現役警察官でした。父は警察官という仕事に誇りを持っていて、小さい頃から僕に警察官になれとずっと言っていました。高校卒業の時も言われ、大学中退の時も言われました」

 親の願いをなぜ受け入れなかったんですか。

「当時は若かったんですね。親への反発もあったし。父は九州出身で子ども心に怖かった。例えば家に親戚が集まってすしがテーブルに出ているとき、子どもですから一番おいしいものだけを食べ続けたり、部屋を走り回ったりすると、後で必ず座敷に正座させられた。『なぜ怒られているのかよく考えろ』と禅問答のようなことをさせられる。3時間正座させられたこともありました。中学出るくらいまでずっとそんな感じでしたよ。高校入るとさすがに正座はなかったですが、まともに口をきけないくらい怖かった。北大を目指したのも、もちろん柔道をやりたいという気持ちはありましたけど、家を出てできるだけ遠くに行きたいという気もあったんでしょうね。生意気盛りでしたし。今なら親の深い思いがよくわかるけど、若い人間って肌はツヤツヤだし、心もひだやしわがなくてツルツルのプラスチックみたいで、見た目は奇麗で美しいんだけど、細かいことに引っかからないでしょう」

 では、29歳のときに警察官試験を受けたことをお父様は喜んだでしょう。

「いえ、言っていませんよ。隠れて受験しましたから」

 結局、採用試験は?

「僕は大学中退でしょう。だから高卒資格の受験だった。29歳の新聞記者が18歳の高校生と一緒にペーパーテスト受けたら、それは合格してしまいますよね。それで体力テストなんかもまだ若いから簡単だった。そこから何度か面接があった。最終の面接で、面接官たちが『もし合格したら、18歳の若者と一緒に1年間警察学校で学ばないといけない。10歳以上離れた者とやっていけるか』とか『年収は18歳の子たちと同じだから今の半分以下になる。それでもいいのか』とか諭された。でも僕は死んだ後輩のことを話し、自分の真意を一生懸命話した。どうしても柔道をやりたいと。面接官のなかには泣いている人もいた。でも数週間後、届いたのは不採用通知でした。落ちたのは当時すごくショックでした。でも今考えると、こちらのことを考えて落としてくれたんじゃないかと思います」

 その時は両親と近くに住んでいて、そのことはバレなかったんですか。

 「ええ。面接のときに面接官たちに『僕の父は愛知県警の現役警官なので本人にこの受験がばれないようにしてください』としつこくお願いしたんです。もし知ったら本人が『だったらどうして高卒や大学中退のとき受けなかったのか』と傷つくから、と。でも、僕の書いた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社、2011年)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した後に、週刊文春のインタビューコラムで兵庫県警受験のことを話したんです。父はこれを読んで初めて僕の警察受験を知った。びっくりして1週間ほどふさぎ込んでいたと聞きました。うれしかったのか、悔しかったのか、あるいは悲しかったのか。でも僕に対しては何も言いません。いまだに僕のほうからもひと言も言っていません」

 いやあ、父と息子の関係は難しいなあ。先月インタビューした北上次郎さんも寡黙な父に、「果たして俺は愛されていたんだろうか」という疑問を抱えながら、父親の青春時代の足跡を訪ね歩いて一冊の本にまとめた、というお話を伺ったばかりです。親の心、特に息子にとって父親の胸の内はなかなかうかがい知れない。腹を割って話すというのが、なぜかはばかられるような関係が多い。世代による違いがあるかもしれませんが。

 「でも、父親への思いが一転するようなことが兵庫県警受験の10年後くらいにありました。僕が40歳くらいのときですね。運転免許証の更新に行った際、駐車違反をしていたので講習を受けなくてはいけなかった。交通安全協会の講師って、元警察官なんですよ。そのときの講師が講習中にときどき柔道の話を挟んでいて愛知県警で特練の柔道選手だったことがわかった。それで講習が終わって新しい免許証をもらったあと、僕はその人が廊下を歩いていくのを走っていって『僕も高校と大学で柔道をやってたんです』って頭を下げた。そうした話の中で父が愛知県警の警察官だったといろいろ話したら、その人が『え、君はマッサンの息子か』と」

 その方はオヤジさんの知り合いだったんですね。奇遇ですね。

 「僕もびっくりしました。ところがその人は『君のお父さんは本当に優しくて、職場のみんなに慕われていた。あんなに素晴らしい人はいないよ』と続けて言うので、さらにびっくり。え、僕が見ていた父と全然違う、あれはいったい何だったんだろうと。僕はただ怖いだけの人として捉えていた。でも、実は優しい人なんだと」

 息子が間近で見る父親像と、職場や他人に映る人間像とは、大なり小なり異なるものでしょうが……。

 「さらに言われた言葉が衝撃でした。『おそらくマッサンにとって君は宝物だと思うよ』と眼を潤ませながら言ったんです。この一言で一瞬にして目の前の風景が変わって見えました。あんなに怖かった存在の父が、まったく違うものに見えはじめた。若い頃の父とのやりとりをいろいろ思いだした。すると、あのときのあの言葉は僕が考えたようなものではなかったのではないか、じつはもっと深い意味があったんではないかと、若い頃に怒られた言葉をいくつも思いだした。そうすると、社会も自分の人生もまったく違ったものに見えてきた。そのときの交通安全協会の講師のおかげで、人生の捉え方がガラッと変わりました。これはあの講師の人間的な大きさもあったと思う。たまたま走り寄ってきた初対面の青年に、その人は素直に父のことを語ってくれた。その強い言葉が親子の糸みたいなものをつなげてくれたなあと。でもね、あのときあの人が『おそらくマッサンにとって君は宝物だと思うよ』と言った言葉、これは僕が走り寄って柔道の話をしたから向こうもなんて可愛いやつなんだと思ったからなんじゃないかな。僕はそのときもう40歳くらいなのに、小学生のように走り寄ってきた。だから『おそらくマッサンにとって君は宝物だと思うよ』という言葉が出た。いま思うと、あのころが僕が柔らかく丸くなっていく転換点のころの年齢だったんだと思います」

 では、その後、父親に自分の気持ちを伝えたんですか。

「いや、話はしませんよ。父もまだ健在ですが、何も言ってきません。だから今回のこのインタビュー記事を読んで初めて知ると思いますよ。そういえば『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)のゲラ校正作業はオヤジが若いころ使っていた座卓で徹夜続きでやったんです。夜中、睡魔が襲ってくるときにふと子供のころを思いだしたんです。そういえば、オヤジも昔、警察の昇進試験のため、この座卓で深夜まで毎晩勉強していたなあと。不思議ですが、そう思うと、体に力がわいてきて頑張ることができた。帝国ホテルで開催された大宅賞の授賞式のとき、最後に司会者が『御家族や御友人の方で一緒に記念写真を撮りたい方は壇上に上がってください』とアナウンスしたんです。みんな恥ずかしがって誰も上がってこない。そのなかで白髪のオヤジが1人でよじ登ってきた。そして、自分よりずいぶん背が高くなった僕の肩を背伸びして上からうれしそうに抱いたんですね。それで僕はオヤジをたてるために窮屈だけど下から腕をまわして写真に納まった。九州男児ですし昔の男ですから受賞しても一度も『おめでとう』の一言すら僕には言わなかった。でも、ゲラ作業をしている僕を遠くから見ていて、結果を出した息子が誇らしかったんでしょう。おそらくこのときやっと、オヤジのなかで『こいつは警察官じゃなくてこの世界に進んでよかったんだ』と納得できたんじゃないかな」

#増田俊也 #七帝柔道記 #木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

(ドリアン長野のご友人の書き込み) 美樹さんのお父様と一緒ですね。宝物だから厳しく躾けたけど若い時は理解できなかった。それって素晴らしいです。何でも猫可愛がりで注意もせずに逆ギレして時にはモンスターペアレントになる親よりも遥かに素晴らしい。昔の人は躾ができました。

ドリアン長野

父のことを思い出しました。 昔は憎んでましたが今は感謝しています。 甘やかされて育った子どもはかわいそうですね。

マーキュリーマークからの伝言

モンスターピアレントは昭和の時代にも存在したに違いありません。無法者や無礼者といった言葉が存在してるのがその理由です。過失行為をやらかした親御さんがいました。「本人に問題がある場合、家族に責任を取ってもらいます。」と教会で教えられたので本当はもっと厳しい姿勢で糾弾が行えましたが、あえて軍事情報を伝達すると同時に信仰生活の改善を彼の娘に求めました。実際に変わりました。「なにぬねの。」が言えなくなる迄、悪事をやらかした人がいてそれは反キリストのコリホルと同じ位に悪い人物であったのです。教義と聖約88章77節ばかりかエゼキエル書25章17節は存在してます。他の軍事情報も用意しております。



逆効果ではないのか…



「大阪メトロの恐怖」

「ねー、コドモオオトカゲって、子どもなのになんでオオがつくん?」

「うーん、子どもでも大きいからやないの?」

「そんじゃあ、大人のトカゲはなんて言うの?」

「そうやねえ、オトナオオトカゲって聞いたことないもんなあ、ただのオオトカゲって言うんちゃうの」

あ"〜言いたい、 それは「コモドオオトカゲ」ですからっ! 残念、切腹‼︎(古)

マーキュリーマークからの伝言

コモドオオトカゲはコモドドラゴンとも呼ばれていて大変危険です。



ダメなの…?



「恐怖の大阪メトロ」

白人男性と日本人女性のカップル。 車両で赤ん坊が泣き出す。

眉をひそめる白人に女性が

「赤ちゃんは泣くのが仕事だからさ」

それを聞いた白人男性、目を見開き、

「オー!ニホンジンノアカチャンハウマレタトキカラシゴトシマスカ!」

と驚愕していた。

マーキュリーマークからの伝言

過去に未成年であった私は東京に住んでた。二十歳を過ぎてから東京都民や東京都民であった人に出会ったことがあった。 「私は東京に住んでましたよ。」「何の仕事してましたか?」「幼い時だけ住んでました。」と返答すると露骨に嫌がる東京都民の男性が多いがそれは失礼です。なぜならば、未成年者や赤ちゃんに対し働けと命令するなんて論外だからです。念のために伝えておくが東京都民の女性は前述した発言をしても嫌がることは少ない。



「差別用語」

きだみのるという作家がいた(1975年没)。 ソルボンヌで人類学などを学び、帰国後は東京都南多摩郡(現八王子市)の廃寺に20年ほど暮らした。 そこでの暮らしを書いた「気違い部落周游紀行」は毎日出版文化賞を受賞したが、その題名ゆえに現在、新聞で紹介されることも書評で取り上げられることもできない。 NHKの訃報では代表作の名を伝えることができず、「東京都下に住みその体験をもとにした作品は有名です」とだけ報じられた、という。 まさに気違いじみていると思う。



毎年8月になると思い出す。 特攻隊員であった植村大尉が書いた生後三ヶ月になる娘素子への手紙と森山直太朗の反戦歌だ。

素子へ

素子は私の顔を よく見て笑いましたよ。 私の腕の中で眠りもしたし、 またお風呂に入ったこともありました。

素子が大きくなって 私のことが知りたい時は、 お前のお母さん、 佳代叔母様に 私のことをよくお聞きなさい。

私の写真帳も お前のために 家に残してあります。

素子という名前は 私がつけたのです。 素直な、心の優しい、 思いやりの深い人に なるようにと思って、 お父様が考えたのです。

私はお前が大きくなって、 立派なお嫁さんになって、 幸せになったのを 見届けたいのですが、 もしお前が 私を見知らぬまま死んでしまっても、 けっして悲しんではなりません。

お前が大きくなって、 父に会いたいときは 九段にいらっしゃい。

そして心に深く念ずれば、 必ずお父様のお顔が お前の心の中に浮かびますよ。

父はお前が幸福者と思います。 生まれながらにして 父に生き写しだし、 他の人々も 素子ちゃんをみると 真久さんにあっている様な気がすると よく申されていた。

またお前の伯父様、叔母様は、 お前を唯一の希望にして お前を可愛がって下さるし、 お母さんもまた、 御自分の全生涯をかけて ただただ素子の幸福をのみ 念じて生き抜いて下さるのです。

必ず私に万一のことがあっても 親無し児などと思ってはなりません。 父は常に素子の身辺を護っております。 優しくて人に可愛がられる人になって下さい。

お前が大きくなって 私のことを考え始めたときに、 この便りを読んで貰いなさい。

昭和十九年○月某日 父 植村素子へ

追伸 素子が生まれた時 おもちゃにしていた人形は、 お父さんが頂いて 自分の飛行機にお守りにして居ります。 だから素子は お父さんと一緒にいたわけです。 素子が知らずにいると困りますから 教えて上げます。



8歳の娘、風呂から上がると炭酸水を冷蔵庫から出してきて、コップに注いでグビグビ。

「カーッ、やっぱり酒はうめえなあ。おい長野、オメーも飲め」

「オメーだって長野だろ」

「いいから飲め!」

というやり取りが二日に一度はある…

広島



マーキュリーマークからの伝言

考慮した結果ですが上記は簡潔な転載とさせていただきます。理由は画像の種類が多く膨大なのと大きな哀しみを作り出すからです。 なお、下記は特別に投稿させてもらいます。皆さん試練を抱えております。



愛する米子の皆様へ

秋の気配を感じる昨今ですが、まだまだ暑さが続きますので体調を崩されませんようにお気をつけください。

さて、久米氏のご好意で細々と営業してきた長野紙店ですが、9月2日を持って売買契約を行うことになりました。不動産の所有権は売買契約締結したときに売主から買主に移転することになります。

つきましては今週の土日、そして8月31日と9月1日を持って長野紙店最後の営業とさせていただきます。 プラモデルの箱モノが些少、一流モデラーが作成した芸術的な完成品をまだ数多く販売しています。

なお、プラモデル以外の紙製品や棚などは残っていても廃棄処分されるだけなので、御入用の方は無料でお持ち帰りください。

冷やかしなど大歓迎ですので、是非お立ち寄りください。

明治創業の長野紙店はフランス語教室兼民泊として生まれ変わります。商店街の活性化に繋がれば私としては望外の喜びです。

どうか新しい試みを応援していただき、温かい目で見守ってくだされば幸いです。

最後に長野紙店をご愛顧くださった地元の皆様方には心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。





「さよならドビュッシー」

中山七里(しちり、と読みます)のミステリーはどれもエンターテイメントとしての水準が高い。ドラマ化、映画化されたこの作品もそうだ。当時「のだめカンタービレ」がブームになっていて、それを意識して書いたそうだ。 クラッシック+スポ根+ミステリーのハイブリッドという前代未聞の作品。 探偵役の岬洋介、彼は司法試験をトップで合格したのだが司法修習期間後、選んだのがピアニストだった(読んでいる最中、ずっとイメージしていたのが谷原章介でした)。

終盤、彼が指摘する。

「お母さんを殺したのは君だ」

一瞬、世界が静止した。 呼吸が止まるかと思った。

呼吸が止まるかと思ったのは読んでいた自分自身でしたねー。

いつもながらうまいなあ。



丁重



ネコと…



高速バスで23時に到着。



駅前のモニュメント



ようきてごしなった



深夜にも関わらず駅前通りは賑やかです



ライブハウスの告知 クロマニヨンズが! 鳥肌実のライブに行ってみたいなあ



実家を裏から見たところ



晴天になってよかった!



裏のパーキングエリア



まるで南欧のようだ(行ったことないけど)



十字架のある塔は自分が通っていたマリア幼稚園です



蔦が絡まるかつての銭湯



懐かしいなあ



よくこの川でフナとかドジョウとかを捕りました



2.26事件で民間人として北一輝とともに銃殺刑になった西田税の石碑



ネコが



この光景は子どもの時と変わってません



子安地蔵



長野家の菩提寺



草が生い茂ってました…



勝田神社



西田税の墓がある法成寺



高台にあるので市街が見渡せます



陽明学の知行合一を説いた中江藤樹の顕彰碑



長野紙店営業は10時からです。 今朝は5時に目が覚めました。 市内を散策です。

長野紙店を購入されたミカエルさんは18年前にノルマンディーから溝口にあるコカコーラボトラーズに就職。米子の海と山に魅了され、この地を永住の地と決めたそうです。



管理人 マーキュリーマークからの伝言

諸事情から転載したい内容についてはこちらで選ばせていただきましたので意図的に転載してない投稿はございます。
9月一日が長野紙店最後の販売だそうですので米子市もしくはその近隣の方々は長野紙店に赴かれてはいかがでしょうか?
溝口町(みぞくちちょう)は、かつて鳥取県日野郡にあった町で2005年(平成17年)1月1日に西伯郡岸本町と合併し、西伯郡伯耆町となったそうで、コカ・コーラボトラーズジャパン(株) 大山工場は鳥取県西伯郡伯耆町金屋谷306−1で操業してます。
住所変更が行われてから十年以上は経過してますがドリアン長野は知らなかったようです。 敬具

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回顧を兼ねた書評 令和二年三月


僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。
行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。
インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。
旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。


ランニングについての投稿




ランニング(特に早朝)をすると
眠気がふっ飛ぶ
血液が循環する
走っている時は悩みを忘れる
デトックスになる
街中の新しい発見
脳から快感物質が出る
一日爽快感が続く
大阪城公園〜坐摩(いかすり)神社の紫陽花